『響きあう音』(音楽ドラマ)
私の部屋の隅に、壊れたギターが立てかけてあった。ネックが折れ、弦も切れたそのギターは、かつての私のすべてだった。
売れないミュージシャンとして十年。三十歳を前に、ついに音楽教室の講師として「まともな職」に就いた。両親は喜び、友人たちは安堵の表情を見せた。
「先生、コード、合ってますか?」
教室に通う小学生の声で、私は現実に引き戻された。
「ああ、その押さえ方で大丈夫だよ」
機械的な返事をする。この仕事を始めて半年、私は日々子供たちに基礎を教えている。
「先生は作曲とかもするんですか?」
その質問に、喉が詰まりそうになった。
「昔はね」
その言葉を口にした瞬間、胸が締め付けられた。
その日の帰り道、いつもと違う道を選んだ。すると、路地裏から音が聞こえてきた。
誰かがギターを弾いている。下手くそな演奏。でも、その音には確かな熱量があった。
「すみません、聴いてしまって」
路地を覗くと、車椅子に座った少年がギターを抱えていた。
「あ、どうぞどうぞ! 僕、まだ始めたばっかりなんです」
少年は明るく笑った。
「ギター教室とか行ってるの?」
「行きたいんですけど……車椅子だと難しくて。独学です」
少年の手には、初心者向けの教則本が握られていた。
「よかったら、教えましょうか?」
その言葉は、自分でも驚くほど自然に出てきた。
「えっ、本当ですか!?」
少年の目が輝いた。
それから週に一度、仕事帰りに路地裏でレッスンをすることになった。少年の名前は健一。事故で下半身が不自由になってから、音楽に出会ったという。
「先生、オリジナルの曲とか作れるんですか?」
また、あの質問だ。でも今回は、違う答えが出てきた。
「作れるよ。でも、最近は作ってないんだ」
「なんで? 先生の曲、聴いてみたいです!」
健一の素直な言葉に、胸が熱くなった。
その夜、久しぶりに部屋の隅のギターに目を向けた。壊れたギターの横には、もう一本の安物のギターがある。教室用に買った、魂の入っていない楽器。
翌日、楽器店に向かった。
「修理できますかね」
壊れたギターを店主に見せる。
「時間はかかりますが、できますよ」
その言葉に、私は深く頷いた。
次の路地裏レッスンの日、健一は自作の曲を聴かせてくれた。
「下手くそですよね」
「いや、いいよ。気持ちが伝わってくる」
その夜、修理から戻ってきたギターを手に取った。懐かしい重み。でも、何か違う。これまで気づかなかった響きが、そこにはあった。
私は曲を書き始めた。十年前に挫折した夢を追いかけるためではない。ただ、誰かに聴いてもらいたい音があった。
一ヶ月後、路地裏での最後のレッスン。
「先生、これからは教室に通います。両親と相談して、許可をもらいました」
健一の決意に、私は新しい曲を聴かせることにした。
「これ、健一に向けて書いた曲」
演奏が始まる。壊れていたギターが、新しい音を響かせた。
その日から、私の教室は少しずつ変わっていった。基礎だけでなく、それぞれの生徒の中にある音を見つけ出すレッスン。私自身も、また曲を書くようになった。
壊れたギターは今も私の部屋にある。でも、もう隅には置いていない。毎日、誰かの心に響く音を探して、私はそのギターを手に取る。
音楽は、決して一人のものではない。響きあう心があって、初めて意味を持つ。それを教えてくれたのは、一人の少年と、一本の壊れたギターだった。
今日も私は、誰かの心に届く音を探している。それは売れることとは違う、でも確かな喜びをくれる。ギターの弦が、静かに震えている。