「思惟する静寂」(哲学ヒューマンドラマ)
風はなかった。いや、風の概念すら存在していない世界だった。
ルネ・オルヴィウスは、果てしない白の地平に立っていた。足元には影もなく、空もない。ただ、思考だけが濃密に充満していた。ここは《界》の裏側、理性によってのみ構築される、**思考の純粋形態**だった。
彼は歩いていた。歩くことに意味はないが、歩くとは「前に進む」と定義されていた。定義のあるものだけが、ここでは実在する。
そのとき、彼の前に〈それ〉が現れた。
姿はない。だが確かに在る。《テオーリア》。思考の深奥に宿る理性的存在。その問いかけは、言葉ではなく、構造で伝わる。
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**定義:** 自由とは、自らの原因によって存在すること。
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「……原因? 自分が自分の原因であるなど、可能なのか?」
返答はない。ただ、再び構造が流れ込む。
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**定義:** 感情は、理解されるまでは外部原因による受動であり、理解されたとき初めて能動となる。
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「つまり、怒りも、恐れも、孤独も……理解すれば、僕のものになる?」
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沈黙。
ルネはその沈黙を、同意と受け取った。彼はかつて、現実世界で「感情を持ちすぎること」に疲れていた。恋人が去った日、母が他界した朝、彼はただ「理由」を欲しがった。
しかし、世界は理由を与えなかった。神は沈黙し、運命は偶然を装って彼を打った。
だがここには偶然はない。すべては「定義」に基づき、連続的に存在している。ここでなら、彼は感情を制御できる。理解によって、自由を手に入れられる。
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**命題:** 世界は一つの実体であり、個々の存在はその様態に過ぎない。
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「……つまり、僕は宇宙の一部分でしかなく、それ以上でも以下でもない?」
《テオーリア》は初めて形を持った。それは彼自身の顔をしていた。違和感なく、彼の心に溶け込んだ。
「自由など、幻想なのか?」
しかし、返されたのは否であった。
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**命題:** 幻想は、真の原因を知らないことによって生まれる。真理は理解によって達成される。
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ルネはしばらく黙っていた。心に浮かぶのは、あのとき泣き崩れた自分、理不尽に怒りをぶつけてしまった誰かの顔、震える手で綴った手紙。無知の果てに、彼は苦しんでいた。
「……すべては、理解できるのか?」
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**定義:** 理性によって把握できるものこそ、永遠の一部である。
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その瞬間、世界に風が吹いた。いや、それは「風」と定義された運動だった。地平線が少し揺れたように思えた。
「では、僕がこの世界を出て、人々の中に戻ったとき……彼らの怒りや悲しみを、理解し、受け入れられるようになるだろうか?」
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**命題:** 理解は和解を生む。自由は愛に至る。
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ルネは初めて微笑んだ。
彼は歩き出す。その足取りは以前よりも軽かった。思考の世界は彼を拒まなかったが、彼を拘束もしなかった。
彼はもう一度、人間としての混沌の世界に戻ることを選んだ。すべての感情と、すべての理不尽と、すべての美しさとともに。
なぜなら、今やそれらは、彼にとって恐怖ではなかった。彼は理解したのだ。自由とは、すべてを知ろうとする意志のことであり、それは**愛と同義**であることを。
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**定義:** 愛とは、対象の存在を正しく認識すること。
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そして、彼はその定義の意味を、歩みの中で噛み締めていた。




