「声のない谷」(ヒューマンドラマ)
風が谷を渡っていた。音のしない風だった。けれど、ヨウにはそれが「鳴いている」のだとわかった。
谷の入り口に立つとき、彼の背中には一冊の本と、父からもらった小さな竹の笛がぶら下がっていた。本にはたくさんの言葉が詰まっていたが、そのどれもが、彼が本当に知りたいことの答えではなかった。
「この世界は、なぜこんなに沈黙しているのだろう?」
ヨウは村を出てから、十七の谷を超えてきた。ある谷では石が語りかけてきたし、ある谷では自分の影が別人として語り始めた。だが、この十八番目の谷は、まるで声を失ったかのようだった。
夜、焚き火の灯が石に揺れ、ヨウは竹の笛を取り出して吹いた。けれど音は出なかった。どれだけ息を込めても、風がすり抜けていくだけだった。
そのときだった。
「声は、どこにあると思う?」
誰かが言った。見回しても誰の姿もない。
「……風の中か?」
「風にあるように思うが、それはお前の耳の奥にある」
ヨウは答えなかった。ただ、笛をもう一度吹いた。
音がした。
それは確かに、どこにも響いていなかった。けれど、その「無音」が、彼の内側でとてつもない震えを起こしていた。耳で聞こえるものではなかった。むしろ、思考でもなく、感情でもなく、「在る」ことそのものが鳴っているようだった。
「君は、どこにいる?」
「お前がそう問うている限り、私はいない。だが、お前が問いを忘れたとき、私はいる」
朝になり、谷を出るころ、ヨウはもう本を開くこともなく、笛を吹くこともなく、ただ黙って歩き出した。何も知らないまま、すべてを知っているような足取りだった。
村に戻ると、父が薪を割っていた。彼はヨウを見ても何も言わなかった。
ヨウもまた、何も言わなかった。
その夜、村の空はとても静かで、だがすべてがよく響いていた。風の音も、木のささやきも、誰かが口にした何気ない一言も、すべてが答えのようだった。
ヨウはようやく理解したのだった。問いがある限り、答えは逃げていく。だが、問いが沈んだとき、すべてが答えになるということを。




