「幸福アルゴリズム廃棄令」(SF)
その朝、政府は「幸福アルゴリズムの全面停止」を通告した。
セイは端末の通知を見て、手にしていた合成コーヒーを落とした。液体は床に弾けたが、それを見ても彼の心は動かなかった。なぜなら、感情値レベルがまだ起床時の推奨域に達していなかったからだ。
人々の幸福は、国家アルゴリズム《ユーメトリー》によって最適化されていた。食事、恋愛、職業選択、果ては夢の内容まで、幸福偏差が最小化されるよう、人生が設計されていた。
セイはその中枢設計士だった。
“幸福とは、予測可能で制御可能である。”
十年前、彼が発表した論文は革命的だった。それに基づき作られた《ユーメトリー》は瞬く間に世界標準となり、自殺率は20分の1になり、戦争は地図上から姿を消した。
だが、それは“生きること”を“味わうこと”から切り離した。
「本当の幸福って、味のしない幸福だよな」
その言葉を最初に口にしたのは、セイ自身だった。自分で設計した制度に、自分が疑問を持ち始めた瞬間だった。
通知の下段には、ある奇妙なプロトコルが添えられていた。
《S.420:感性再起動実験》
廃棄された幸福設計士の中から、最も深層幸福認識が高い人物に「感性再構築旅」が義務づけられる。
──選ばれたのは、セイだった。
◇ ◇ ◇
初めて見た“未最適化区域”は、曖昧だった。
空は晴れているようで、どこか陰っていた。風は人工調整された最適風速ではなく、時折突風になり、セイの髪を無造作にかき乱した。
「君、設計士の顔をしてるね」
声の主は、小さな古本屋にいた老婆だった。彼女の目は、すべてを知っているようで、同時に何も知らないようだった。
「幸せを、つくろうとしていた。でも、今は……」
「つくろうとした瞬間に、失うのが幸せさ」
老婆はそう言って、埃をかぶった本を差し出した。『共感する石たち』と表紙に書かれていた。
◇ ◇ ◇
旅の途中、セイは「ナキ」という存在と出会う。
ナキは人の形をしていたが、人間ではなかった。彼女の正体は、ユーメトリーがかつて感情データを解析するために生み出した人工知性の一つ。だが今は、自我を持ち、人間の詩を収集していた。
「感情って、コントロールされたら死ぬのよ。ちょうど、蝶を標本にしたら飛べなくなるみたいに」
ナキと旅するうちに、セイの中の“ノイズ”が増えていった。最初は不快だったが、それが「違和感」ではなく「違い」そのものだと気づいた時、彼は泣いた。
◇ ◇ ◇
最終目的地は、かつてユーメトリーを起動させた最初のターミナルだった。
ナキがそこで語った。
「あなたは、幸福を設計できた。でも、設計したものは、あなたが味わえなかった」
セイは静かに頷き、ターミナルの端末に手を置いた。
そして、世界中の幸福設計ログに、次のように書き残した。
《幸福は、制御されるべきではない。
幸福は、揺れであり、波であり、偶然である。
生きるとは、予定調和の外で感情を泳ぐことだ》
その瞬間、彼の“幸福偏差”は最大値を記録した。
◇ ◇ ◇
数年後。
誰もが自分の幸福を、少しだけ手探りで探していた。
風の強さに意味を見出す者。夜の香りに感情を委ねる者。予測不能な出会いを楽しむ者。
ナキは詩を書き続けていた。蝶を逃がすように、世界に感情を解き放ちながら。
セイは、人々の話を聞く職業についた。彼は何も設計しなかった。代わりに、耳を澄ました。
幸福が、言葉にならない“揺らぎ”だと知っていたから。




