「黒曜石の瞳」(退廃美学)
第一章: 退屈の城
灰色の霧が立ち込める丘の上に、その城は聳えていた。石壁は苔に覆われ、尖塔はまるで空を突き刺す槍のように鋭く伸びている。城主であるアルフォンス・ド・ラヴェルは、窓辺に佇み、眼下に広がる荒涼とした風景を眺めていた。白髪が肩に流れ、赤い瞳が薄暗い部屋の中で不気味に光っている。彼は29歳にしてこの古城を相続し、10年をここで過ごしてきたが、その全てが退屈の連鎖に過ぎなかった。
「人間とはかくも凡庸なものか。」
アルフォンスは呟き、葡萄酒の入った杯を手に持ったまま窓枠に凭れた。彼はかつて貴族の末裔として生まれ、学問と芸術に没頭した。だが、知識を極め尽くし、美を貪り尽くした今、彼に残されたのは虚無だけだった。両親は早くに亡くなり、友も恋人も彼の皮肉な舌鋒に耐えきれず去っていった。城の書庫には中世の悪魔学書や禁断の魔術書が並び、彼はそれらを読み漁ったが、それさえも彼を満たさなかった。
ある夜、嵐が城を叩きつける中、アルフォンスは書庫の奥で埃にまみれた一冊の本を見つけた。黒曜石のように黒く輝く表紙に、金文字で「深淵の使者」と刻まれている。彼はそれを手に取り、ページをめくった。そこには奇妙な文字と図像が描かれ、まるで生きているかのように蠢いていた。
「これが……私の退屈を終わらせてくれるのか?」
彼は独り言ち、燭台の灯りを近づけた。すると、文字が浮かび上がり、彼の目の前で炎のように踊り始めた。それは召喚の呪文だった。
第二章: 使者の降臨
アルフォンスは迷わず呪文を唱えた。声が城内に響き渡り、雷鳴がその言葉に呼応するかのように轟いた。部屋の中央に描かれた魔法陣が赤く発光し、床が震え始めた。そして、闇の中から姿を現したのは、人とも獣ともつかぬ存在だった。漆黒の翼を持ち、瞳は黄金に輝き、全身が半透明の鱗に覆われている。その姿は美しくも恐ろしく、アルフォンスの心を一瞬で掴んだ。
「お前が私を呼んだのか、人間。」
使者は低く、金属的な声で言った。アルフォンスは目を細め、皮肉な笑みを浮かべた。
「退屈を殺すために、な。貴様がその役目を果たせるなら、私の魂をくれてやってもいい。」
使者は首を傾げ、アルフォンスを見据えた。
「魂など要らぬ。だが、取引をしよう。お前が私の謎を解くならば、この世界を超えた深淵を見せてやろう。解けなければ、お前は永遠にこの城で朽ち果てる。」
アルフォンスの胸が高鳴った。退屈からの解放、そして未知への挑戦。それこそ彼が求めていたものだった。
「面白い提案だ。受けて立とう。」
第三章: 謎の旅路
使者が差し出したのは、小さな黒曜石の球体だった。それを手に持つと、アルフォンスの意識は一瞬にして別の世界へと飛んだ。彼が立っていたのは、果てしない砂漠だった。空は血のように赤く、遠くには歪んだ形の山々が連なっている。足元には一本の道が伸び、その先には巨大な門がそびえていた。
「第一の謎だ。」
使者の声が頭の中に響いた。
「門を開ける鍵は、お前の知識の中にある。だが、選ぶ言葉を誤れば、砂に呑まれる。」
アルフォンスは門に近づき、その表面に刻まれた文字を読み取った。それはラテン語で、「禁断の果実を手に持つ者は、入ることを許される」と書かれていた。彼はしばし考え込んだ。中世の文献に詳しい彼は、禁断の果実が単なるリンゴではないことを知っていた。それは知恵であり、罪であり、人間を神に近づけたものだ。
彼は黒曜石の球体を掲げた。
「これが鍵だ。知識そのものだ。」
門が軋みながら開き、アルフォンスは中へ踏み入った。そこは巨大な図書館だった。壁一面に本が並び、空中には光る文字が浮かんでいる。使者の声が再び響いた。
「第二の謎だ。無数の言葉の中から、私の名を見つけ出せ。」
アルフォンスは本を手に取り、読み始めた。だが、本の内容は全てが異なり、悪魔の名、天使の名、神々の名が無秩序に並んでいる。彼は焦りを抑え、冷静に考えた。使者は「深淵の使者」と呼ばれていたが、それは本当の名ではないはずだ。彼は記憶を遡り、中世の悪魔学でよく知られた名を思い浮かべた。アザゼル、ベルフェゴール、アスモデウス……。だが、どれも平凡すぎる。
ふと、彼は使者の姿を思い出した。漆黒の翼、黄金の瞳。それはまるで東洋の龍を思わせる。そして、図書館の奥に一冊の古びた東洋の書物を見つけた。そこには「龍淵」という名が記されていた。深淵に住む龍。全てが符合する。
「貴様の名は龍淵だ。」
図書館が崩れ落ち、アルフォンスは再び別の場所に立っていた。
第四章: 深淵の果て
今度は暗闇の中だった。足元には何もなく、彼は浮いている感覚に包まれた。使者――龍淵が彼の前に現れ、微笑んだ。
「よくやった。最後の謎だ。お前は何を求める?」
アルフォンスは一瞬言葉を失った。退屈からの解放を求めてここまで来たが、深淵を前にして彼は新たな欲求を感じていた。それは知識でも美でもなく、自分自身を超える何かだった。
「私は……この深淵そのものを見たい。全てを知り、全てを呑み込む存在になりたい。」
龍淵は静かに頷いた。
「ならば、そうなれ。」
次の瞬間、アルフォンスの身体は砕け散り、彼の意識は深淵と一体化した。城は消え、霧は晴れ、彼の存在は世界を超えて広がった。退屈は永遠に彼を捕らえることはできなかった。
終章: 黒曜石の遺産
丘の上には、もはや城の痕跡すら残っていなかった。ただ一つ、黒曜石の球体が草むらに転がっているだけだった。それを見つけた旅人は、それを手に取り、不思議な光に目を奪われた。そして、彼もまた、深淵への旅を始めることになる。
物語は終わり、また始まる。退屈を殺す者たちが、新たな謎を求めて彷徨うのだ。