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「匂いの鍵」(ヒューマンドラマ)


 古い木造アパートの二階、湿った畳の匂いが鼻をつく部屋で、佐藤遥は毎朝同じ夢を見ていた。夢の中で、彼女は幼い頃に亡くなった祖母と庭に立ち、甘い金木犀の香りに包まれている。目を覚ますと、現実の部屋にはいつも微かな焦げ臭さが漂っていた。換気扇を回しても消えないその匂いは、どこか懐かしくもあり、苛立ちも覚えた。

「またか。どうしてこんな夢ばかり……」

 遥は呟きながら、ベッドから這い出してカーテンを開けた。窓の外には、隣の家の煤けた壁と、錆びた自転車が放置された庭しか見えない。夢の中の鮮やかな金木犀とは対照的な、灰色の世界だ。彼女は27歳、事務職で働きながら、週末は祖母の遺品を整理するだけの単調な日々を送っていた。

 その朝、いつものように台所でコーヒーを淹れようとすると、棚の奥に小さな木箱を見つけた。祖母の遺品整理で何度も見たはずの棚なのに、今まで気づかなかった。箱の表面には細かな彫刻が施され、蓋を開けると、中から強烈な金木犀の香りが溢れ出した。遥は思わず目を閉じ、夢の中の庭を思い出した。箱の中には、古びた鍵と一枚の紙が入っていた。紙には祖母の筆跡で「裏庭へ」とだけ書かれている。

 裏庭? 遥は首をかしげた。このアパートに庭などない。だが、焦げ臭さが混じる部屋の中で、金木犀の香りは異様に鮮明で、彼女をどこかへ導くように感じられた。鍵を手に持つと、ひんやりとした金属の感触が指先に残り、なぜか胸がざわついた。

 仕事から帰宅した夕方、遥は意を決してアパートの裏手へ向かった。そこにはコンクリートの地面とゴミ箱があるだけだ。鍵を握りながら辺りを見回すと、地面に埋もれた小さな鉄の蓋を見つけた。普段なら見過ごすような、錆びついたその蓋に、鍵穴がある。試しに鍵を差し込むと、カチリと音がして蓋が開いた。

 中は暗い階段だった。遥はスマホのライトを頼りに下りていく。足元の石は湿って滑りやすく、壁からは土とカビの匂いが漂ってきた。10段ほど下りたところで、狭い空間に出た。そこには古い木製の扉があり、再び鍵がぴったりと嵌まった。

 扉を開けると、目の前に広がったのは夢で見た庭だった。金木犀の木が夕陽に照らされ、甘い香りが風に乗り、遠くで祖母の笑い声が聞こえる。遥は呆然と立ち尽くした。だが、よく見ると庭の端には焦げた木々が点在し、空には灰色の煙が薄く漂っている。現実と夢が混ざり合ったような、不思議な光景だ。

「遥ちゃん、こっちよ」

 祖母の声に導かれ、遥は庭の奥へ進んだ。そこには小さな小屋があり、中には祖母が使っていた編み物道具や手紙の束が残されていた。手紙を手に取ると、遥の母宛てに書かれたものだった。「遥が大きくなったら、この庭を教えてあげて。火事で失ったけど、私にはまだここが残っているから」と綴られている。

 火事? 遥は記憶を探った。幼い頃、祖母の家が火事で焼けたと聞いたことがある。だが、祖母はその前に病気で亡くなったはずだ。混乱する遥の耳に、再び祖母の声が響いた。

「鍵はね、遥ちゃんにあげたかったの。ここでまた会えるように」

 振り返っても誰もいない。小屋の外では、金木犀の香りが焦げ臭さと混じり合い、風に揺れていた。遥は手紙を握り潰し、涙が溢れるのを感じた。そして気づいた。毎朝の夢と部屋の焦げ臭さは、祖母が彼女をここへ導くためのサインだったのだ。

 その夜、遥は再び夢を見た。庭に立つ祖母が微笑みながら手を振っている。だが、今度は金木犀の木が燃え上がり、祖母の姿が炎に溶けていく。目を覚ました時、部屋の焦げ臭さは消えていた。代わりに、微かな金木犀の香りが残り、遥の胸を締め付けた。

 翌朝、彼女は木箱を手に持つ。蓋を開けると、中は空っぽだった。鍵も紙も消えている。だが、箱からはまだ金木犀の香りが漂い、遥は静かに目を閉じた。庭はもう見えない。でも、祖母が確かにそこにいたことを、彼女は知っていた。



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