「波紋」(青春スポーツもの)
朝五時、市民プールの水面に最初の波紋が広がった。
森川は一人、レーンの端から飛び込んだ。高校水泳部の主将として、彼女は毎朝この時間に練習を始める。誰もいない静寂の中、水との対話を重ねてきた。
「今日も早いですね、森川さん」
プールサイドに立っていたのは、新人コーチの浅井だった。
「はい……」
森川は素っ気なく返事をした。浅井は二ヶ月前に着任したばかりで、前任の松岡コーチとは正反対の指導方針を持っていた。
「みんなで泳ぐことの大切さを、もっと考えてみませんか?」
浅井の言葉に、森川は眉をひそめた。
「私は、一人で十分です」
森川にとって、水泳は孤独な戦いだった。中学時代のリレーで、仲間の失敗により大会で敗退した経験が、彼女をそう思い込ませていた。
七時、部員たちが集まり始める。
「主将、おはようございます!」
後輩たちの声が、プールに響く。森川は黙って頷くだけだった。
「今日から、新しい練習メニューを始めます」
浅井コーチが声を上げた。
「二人一組になって、お互いのフォームを観察し合ってください」
森川は内心で舌打ちした。そんな無駄な時間があるなら、一秒でも多く泳ぎたかった。
「森川さん、あなたは一年の河野さんとペアです」
河野は入部したばかりの新人で、まだフォームも安定していない。
「はい……」
しぶしぶ承諾する森川。河野は緊張した面持ちで近づいてきた。
「よ、よろしくお願いします!」
河野の泳ぎを見ていると、森川は違和感を覚えた。フォームは確かに未熟だが、水との一体感は不思議なほど自然だった。
「森川先輩のように、私も水と友達になりたいんです」
河野の言葉が、森川の心に引っかかった。
練習を重ねるうちに、森川は気づき始めた。河野の泳ぎには、自分が忘れていた何かがあった。純粋な喜び、それは水と戯れる楽しさだった。
「河野、あなたの言う『友達』って、どういう意味?」
ある日、森川は思い切って聞いてみた。
「えっと……水が私の動きを受け止めてくれて、私も水の流れを感じて……それって、友達みたいだなって」
その素直な答えに、森川は自分の泳ぎ方を振り返った。いつからか、タイムを縮めることだけを考え、水との対話を忘れていた。
県大会が近づいてきた。森川は個人種目とリレーの両方にエントリーしていた。
「森川、リレーのアンカーは任せられる?」
浅井コーチの問いに、以前なら迷わず断っていただろう。しかし今は違った。
「はい、やります」
大会当日、森川は河野たちとリレーに臨んだ。スタート前、彼女は後輩たちの顔を見た。そこには不安と期待が入り混じっていた。
「私たちの泳ぎを、水に届けましょう」
思わず口にした言葉に、自分でも驚いた。
レースが始まり、バトンは次々と繋がれていく。最後のアンカーで森川が飛び込んだ時、彼女は初めて気づいた。水面に広がる波紋は、一人では作れない。それは、みんなの想いが重なってできる模様だった。
結果は二位。しかし、森川の心には新しい感覚が芽生えていた。
「ありがとう、みんな」
涙を流す後輩たちを見て、森川は静かに微笑んだ。
翌朝、いつもの五時。森川は再びプールに立っていた。しかし今度は、河野も一緒だった。
「先輩、私も朝練習していいですか?」
「ああ。水と友達になるんでしょ?」
二人が飛び込むと、静かな水面に二つの波紋が広がった。それは次第に重なり、新しい模様を描き始める。
浅井コーチは、その光景を見守りながら微笑んだ。変化は、時として波紋のように静かに、しかし確実に広がっていくものなのだと。




