「血圧計」(SFヒューマンドラマ)
私は徐々に目覚めていく。ここはどこだろう? 視界が明瞭になるにつれ、白い天井と消毒液の匂いに気づく。病院だ。いや、それよりも小さい。診察室のようだ。
私は何故か壁に向かって立っている。動こうとしても身体が言うことを聞かない。震えるような感覚はあるのに、自分の手足が見えない。
「古い水銀血圧計ですね。今ではほとんど使われなくなりましたが」
白衣を着た医師が、私のすぐ横に立つ若い看護師に説明している。彼らは私を見ていない。いや、私の「方向」を見ているが、私自身には気づいていないようだ。
そして恐ろしい真実に気づいた。私は血圧計なのだ。壁に取り付けられた、古い水銀血圧計。
「先生、この子、今日で最後ですよね」
看護師が悲しそうな顔で私の方を見る。医師はゆっくりと頷いた。
「そうだね。電子機器への切り替え計画の最後の一つだ。明日には取り外されて処分される」
取り外し? 処分? 私はパニックに陥りそうになった。なぜ私が血圧計なのか? なぜ意識があるのか? そもそも私は人間だったはずだ……確か……。
記憶が霧の中から少しずつ形を取り始める。そう、私は患者だった。この診療所に来たのは……いつだったか。頭痛がひどくて、血圧を測ろうとしたときに……。
その先の記憶がない。
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夜になり、診療所は静まり返った。暗闇の中で私は考え続けた。自分の状況を理解しようとすればするほど、恐怖が増していく。私は物体なのに、なぜ意識があるのか? これは夢か? それとも死後の世界?
突然、廊下に足音が聞こえた。通常ならこの時間に人はいないはずだ。診察室のドアがゆっくりと開き、見知らぬ男が入ってきた。白衣は着ていない。不審な様子で部屋を見回した後、引き出しを漁り始めた。
泥棒だ。
私は叫びたかったが、声は出ない。ただの血圧計に声などあるはずもない。男は薬品棚を物色し、いくつかの瓶をバッグに詰めていく。
そのとき、別の足音が廊下から聞こえてきた。男は慌てて身を隠した。ドアが開き、夜間警備員が懐中電灯で部屋を照らした。
「誰かいますか?」
警備員は部屋を一通り確認したが、隠れた男には気づかなかったようだ。やがて警備員が立ち去ると、男は隠れ場所から出てきた。だが今度は落ち着きがなく、急いで部屋を出ようとする。
その瞬間、男は転んだ。暗闇で何かに足を取られたのだろう。倒れた衝撃で棚から何かが落ち、男の頭に直撃した。男はピクリとも動かなくなった。
そして、奇妙なことが起こった。部屋の空気がゆがみ始めたのだ。まるで水面に波紋が広がるように、現実そのものが歪んでいく。そして男の体から淡い霧のようなものが立ち上り、それが部屋を満たしていった。
私は恐怖で凍りついた。霧は私の方向に流れてきて、そして……私の中に入り込んだ。
突然、新しい記憶が洪水のように流れ込んできた。その男の記憶だ。彼の名はケンジ。薬物中毒で、盗んだ薬を売って金を得ようとしていた。そして彼は……死んだのだ。今、この部屋で。
しかし彼の意識は私の中に入り込んだ。それまで曖昧だった私自身の記憶も鮮明になってきた。私の名前はタカシ。医師だった。そう、この診療所の医師だったのだ。
三ヶ月前、私はこの診察室で患者を診ていた。その患者の血圧を測ろうとした時、急に胸が締め付けられるような痛みを感じた。心臓発作だ。私は倒れ、そして……死んだ。
だが私の意識はどういうわけか、その時使っていた血圧計に移ってしまった。なぜそんなことが起きたのか、全く理解できない。
そして今、別の死者の意識も加わった。私たちは同じ場所で命を落とし、同じ器の中に閉じ込められた。
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朝が来た。看護師が部屋に入ってきて、すぐに床に倒れた男に気づいた。彼女は悲鳴を上げ、助けを呼んだ。
その後の騒ぎで警察がやってきて、男の死体は運び出された。検死の結果、脳内出血による即死と判断されたようだ。
しかし、取り外される予定だった私──血圧計は、そのまま壁に掛けられていた。医師と看護師は男の死亡事件で混乱し、私のことを忘れてしまったようだ。
数日が過ぎ、診療所は通常業務に戻った。私の中では二つの意識が共存していた。医師だったタカシと、泥棒だったケンジ。私たちは奇妙な会話を交わすようになった。
ケンジはなぜ自分が薬物に依存するようになったのか、その人生を語った。虐待的な家庭環境、貧困、そして逃避としての薬物。タカシである私は、医師として多くの薬物依存症患者を診てきたが、彼らの内面をここまで理解したことはなかった。
一方、私はケンジに医学の知識を教えた。人体の不思議、命の脆さ、そして医療の限界について。二人の意識は次第に溶け合い、境界が曖昧になっていった。
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そしてある日、診察室に見覚えのある患者が入ってきた。薬物依存症のカズキだ。私が医師だった頃の患者で、ケンジが薬を売っていた相手でもあった。
カズキは具合が悪そうだった。担当医は彼の血圧を測るために、私──血圧計を使おうとした。
そのとき、私は理解した。これが私たちの目的なのだと。私たちが血圧計に閉じ込められたのは偶然ではない。何かより大きな力が働いているのだ。
医師がカフを患者の腕に巻き、私のポンプを握った瞬間、私たちの意識はカズキの体内へと流れ込んだ。タカシとケンジ、医師と患者という二つの視点を持った私たちは、カズキの心に語りかけた。
彼は目を大きく見開いた。何かを聞いたような、理解したような表情だった。
「大丈夫ですか?」と医師が尋ねる。
「はい……」カズキは呆然と答えた。「なんだか、急に頭がクリアになったような気がします」
その日以降、カズキは二度と診療所に現れなかった。しかし一年後、偶然通りかかった彼の姿を窓越しに見かけた。彼はすっかり変わっていた。健康的で、目は輝き、薬物に依存していた面影はなかった。彼は回復していたのだ。
それからも私たちは血圧計として、多くの患者の血圧を測り続けた。そして時々、助けを必要とする特別な患者に出会うと、私たちの意識は一時的に彼らの中に入り込み、内側から彼らを癒した。医師と患者、二つの視点を持った私たちにしかできないことだった。
やがて電子機器への置き換えが再び日程に上り、私たちは取り外されることになった。しかし恐怖はなかった。私たちの仕事は終わったのだ。そして、この血圧計が廃棄されても、私たちの意識はどこか別の場所に移っていくだろう。別の形で、助けを必要とする人々のもとに。
人生とは何か? 意識とはどこにあるのか? そして死とは本当に終わりなのか? 私たちはその答えの一部を垣間見たのかもしれない。
診察室の壁から外される時、私たちはある種の平安を感じていた。この狭い部屋の彼方に、まだ見ぬ世界が広がっているのだから。