「最後の森番」(SF)
私が通う高校は、かつて「緑ヶ丘」と呼ばれていた。今では、その名前に反して周囲に緑はほとんど残っていない。都市拡張計画により自然は次々と切り開かれ、唯一残った森は学校の裏手にある小さな区画だけだ。それも、教育研究用の「保護区域」という名目で辛うじて守られているにすぎない。
「坂上、お前も放課後の森林観察ボランティアに参加しろ」
放課後、生物部の顧問である木村先生に呼び止められた。私は内心で溜息をついた。先生は異常なまでに残された森にこだわり、生徒たちを動員して観察記録や保全活動を続けていた。
「先生、僕はプログラミング部なんですけど」
「知っている。だからこそお前に頼みたいんだ。森の生態系データをデジタル化して保存するシステムを作ってほしい」
断る理由が見つからず、私は重い足取りで森へと向かった。
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2071年、地球環境は決定的に崩壊した。高度に発達した科学技術により人類の生存は確保されていたが、自然そのものは維持できなかった。私は「緑の記憶」保存プロジェクトの最終確認を行っていた。
「鈴木さん、全データの転送は完了しました」
若い技術者が報告する。彼の名前すら覚えていない。今では人と深く関わることも少なくなった。
「ご苦労。最後のチェックは私がやる」
私は管理室に向かった。壁一面のモニターには、かつて地球に存在した森林生態系のデータが映し出されている。実物の森林がほぼ消滅した現在、このデータは人類の「記憶」として保存される予定だった。
だが、私には別の計画があった。
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高校生の私が森に到着すると、木村先生はすでに数人の生徒と共に観測機器を設置していた。
「やあ、坂上。早速だが、このセンサーをあの木々の間に設置してくれないか」
渡された小さな機器を持ち、私は森の奥へと進んだ。樹木の間から差し込む陽光が思いのほか美しく、しばし足を止めて深呼吸した。都市の喧騒から離れた森の静けさは、不思議と心地よかった。
作業を終え引き返そうとした時、私は奇妙なものを見つけた。古い木の幹に、小さな扉のようなものがはめ込まれていたのだ。好奇心に駆られ、私はその扉を開けた。中には小さな空間があり、古びた手帳が置かれていた。
手帳を開くと、日付は2071年と記されていた。
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「最終確認が終わりました」
私は管理官に報告した。「緑の記憶」プロジェクトは予定通り進んでいる。だが実際には、私は密かにプログラムに変更を加えていた。このデータは単なる記録ではなく、失われた森林を再生するためのシードデータとなる。政府の管理を離れ、地球上に残された僅かな自然地帯で自己増殖するナノマシンのプログラムだ。
私が高校生だった頃、森で見つけた手帳には、まさに今の状況と、このプロジェクトについての詳細が書かれていた。手帳の最後には「循環の輪を閉じよ」という言葉と共に、プログラムのコードが記されていた。
あれから五十年、私はそのコードを完成させるために生きてきた。
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私は震える手で手帳を閉じた。日記の筆者は間違いなく自分自身だった。だが、私はまだそんな日記を書いていない。そして日記に記された未来は、あまりにも暗く絶望的だった。
「坂上、何をしている?」
木村先生の声に我に返り、私は慌てて手帳をポケットに入れた。
「すみません、ちょっと休憩していました」
先生は不思議そうな顔で私を見たが、特に追及はせずに作業を続けるよう促した。
その夜、私は手帳を徹底的に調べた。2071年の私からのメッセージは明確だった。このままでは森林はすべて失われ、人類は人工的な環境の中でしか生きられなくなる。そして、それを防ぐための方法も書かれていた。
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転送プログラムが起動した。世界中の政府管理下にあるデータベースに「緑の記憶」が送られる。しかし同時に、私の仕込んだプログラムも起動した。五十年前、高校生だった自分に向けたメッセージが、時を超えて届いたのだ。
モニターに警告が点滅し始めた。予想通りだ。システムは改変を検知し、私の行動を阻止しようとしている。だが、もう遅い。プログラムは既に送信され、残された自然の中で息づき始めている。
「鈴木、何をした!」
管理官が怒鳴り込んできた。私は静かに両手を上げた。
「未来を変えたんだ」
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手帳の内容を理解した私は、木村先生に真実を打ち明けた。最初は半信半疑だった先生も、手帳の詳細なデータを見て信じざるを得なかった。
「これが本当なら、我々には未来を変える責任がある」
先生と私は計画を立てた。まず、現在の森の完全なデータベースを作る。次に、それを基にしたナノテクノロジーの基礎研究を始める。そして最後に、自己増殖可能な森林再生システムの開発だ。
もちろん、これは私たち二人だけでは実現不可能な計画だった。しかし、この森から始まる小さな変化が、五十年後の未来を書き換える可能性があった。
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逮捕され、尋問を受ける私の頭の中は、五十年前の記憶でいっぱいだった。あの時、木村先生と共に始めた小さな活動が、少しずつ世界を変えていった。プログラミング部の仲間たちと開発したデータベース、大学で研究を続けたナノテクノロジー、そして世界中の志を同じくする科学者たちとの連携。
私たちの努力は実を結ぶだろうか? それとも、またしても失敗するのだろうか?
尋問室の窓から、かすかに見える空の色が変わり始めた。深いグレーから、僅かに青みを帯びた色へ。そして、遠くの地平線に、緑の点が見え始めた。
「見ろ」と私は言った。「始まったよ」
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高校の卒業式の日、私は再び森を訪れた。あの木の幹に手帳を戻し、小さな扉を閉じた。未来からのメッセージが届いたのは偶然ではなく、未来の私が意図的に送り返したのだと分かっていた。そして今度は私がその循環を完成させる番だった。
「坂上、何をしているんだ?」
木村先生が声をかけてきた。
「未来へのメッセージを送っています」
先生はにっこりと笑った。
「未来は変えられるかな?」
「変えられます。というか、もう変わり始めていると思います」
私たちが始めた小さな取り組みは、既に全国の学校に広がり始めていた。環境保全と再生のプロジェクトは、若者たちの間で新たなムーブメントになりつつあった。
先生と共に森を出ると、新しい芽吹きが春の日差しを受けて輝いていた。未来を変えるために必要なのは、小さな希望の種だけだったのかもしれない。
「最後の森番」と呼ばれるのは、私たちではないだろう。なぜなら、私たちの後にも森を守る人々が続くからだ。