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「湖底のアスリート」(ホラー)

『未確認生物調査記録:青森県七湖における不可解な現象について』

調査者:宮崎文彦(民俗学者・水生生物研究家)

記録日:20XX年10月14日


 私はこの記録を、科学的検証に耐えうる客観的事実として提出するものではない。むしろこれは、私自身も完全には理解できない現象の記録である。七湖で起きた出来事を忠実に記述することが、私に残された唯一の責務だと考えている。


 事の発端は、全国高校水泳選手権大会の予選会場選定にあった。青森県の七湖が会場候補として挙がったとき、地元の反対意見は根強かった。「湖には触れるな」という言い伝えが、この地域には古くからあったためだ。しかし経済効果を見込んだ行政判断により、七湖での開催が決定された。


 私がこの地を訪れたのは、選手権の二週間前だった。七湖周辺に伝わる水神伝説の調査を目的としていた。地元の古老から聞いた話によれば、七湖には「湖底に沈んだ村」があるという。大雨で水没した集落の住民たちは死後も湖底で暮らし続け、時折、泳ぐ者を引き寄せるというのだ。


 もちろん、私はそれを迷信だと考えていた。


 調査三日目、私は地元の水泳部に取材する機会を得た。彼らの監督である中村誠一氏は、かつて全国大会で優勝経験のある元スイマーだった。中村氏は七湖での練習を固く禁じており、選手たちは隣町のプールに通っていた。


「七湖は危険です。波も無く穏やかに見えますが、突然の渦が発生することがあります。それに……水の中から声が聞こえるんです」


 中村氏の表情は真剣だった。彼は十年前、七湖で練習中に溺れかけた経験があるという。


「水中で、私は確かに見たんです。湖底に向かって泳いでいく選手たちを。みんな笑顔で、まるで競争でもしているように……」


 中村氏の証言は、民俗学的には興味深いものだった。溺死者の霊が生者を水中に誘うという伝承は世界各地に存在する。しかし私は、それを幻覚か酸素欠乏による幻視だと解釈していた。


 問題が起きたのは、選手権直前の公式練習日だった。


 私は取材のため、湖畔に設けられた特設会場にいた。全国から集まった高校生たちが、次々と七湖に飛び込んでいく。湖面は穏やかで、青空を鏡のように映していた。


 異変は突然訪れた。練習開始から約二十分後、一人の選手が悲鳴を上げた。


「誰かが足を掴んだ!」


 それは福岡県代表の主将だった。彼の言葉に、周囲の選手たちも不安そうに湖面を見回した。


「何か湖底にいる……」


 別の選手も叫んだ。次々と選手たちが湖から上がり始めた。だが全員ではなかった。何人かの選手たちは、むしろ興奮した表情で湖の中央へと泳ぎ出していた。


 監視員が警笛を鳴らし、全選手に上陸を命じた。しかし五人の選手が応じなかった。彼らは競うように湖の深みへと潜っていった。


 救助ボートが出されたとき、私は衝動的にカメラを手に取り、水中撮影の準備をした。ウェットスーツに着替え、酸素ボンベを背負う。研究者としての使命感が私を動かしていた。


 水中は驚くほど透明だった。私は救助隊の後について潜行した。水深十五メートルを超えたあたりで、彼らの姿を見失った。さらに深く潜ろうとしたとき、私は「それ」を目撃した。


 水中を横切る影。人間のようでいて、どこか違和感がある泳ぎ方。五人の高校生が、その影を追うように泳いでいく。


 私は震える手でカメラのシャッターを押した。ファインダー越しに見た光景は、今も鮮明に記憶に残っている。湖底には建物らしきものの痕跡があり、その間を縫うように泳ぐ存在がいた。人間の形をしているが、皮膚は青白く、指の間には薄い水かきのようなものが見える。そして最も衝撃的だったのは、彼らが明らかに競争しているように見えたことだ。


 湖底のアスリートたち——そう呼ぶべき存在だった。


 私は二十枚ほど写真を撮影した後、酸素残量の警告に従い浮上を始めた。その際、一人の高校生が私の方を振り返った。彼の表情には恐怖はなく、むしろ歓喜のようなものが浮かんでいた。彼は手招きをした。私は咄嗟に首を横に振り、急いで浮上した。


 湖面に戻ると、すでに救助活動は打ち切られていた。行方不明の五名は「重大な事故」として処理され、選手権は中止になった。地元紙は「溺死」と報じたが、遺体は一体も発見されなかった。


 そして私のカメラに撮影された画像は、すべて暗く霞んでいて、何も写っていなかった。


 事件から一週間後、私は決定的な証拠を見つけた。行方不明になった五名の選手たちの過去の記録を調査したところ、彼らには共通点があった。全員が地方大会で同じ記録——50メートル自由形で23秒45——を出していたのだ。この偶然はあまりにも不自然だった。


 より詳しく調べると、過去三十年間で七湖周辺で行方不明になった人々の中に、九名の水泳選手がいることが判明した。そして驚くべきことに、彼らもまた同じ記録を残していたのだ。


 私はこの事実を地元警察に報告したが、取り合ってもらえなかった。


 今夜、私は最後の調査として七湖に戻る予定だ。湖畔に立てられた立入禁止の看板の向こうで、湖面が私を誘っているように思える。今朝の練習で、私は50メートル自由形で23秒45を記録した。湖底のアスリートたちが、私を歓迎してくれるだろうか。


 ※本記録の発見者へ:私が戻らない場合は、この調査記録を公表してください。そして、どうか七湖では泳がないでください。特に、50メートル自由形で23秒45という記録を持つ方は。

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