「息のない世界」(セカイ系SF)
私の妹は息をしていない。
正確に言えば、妹は呼吸という概念を持たない。彼女の身体は酸素を必要としないのだ。彼女は生まれつき「無呼吸症候群」と呼ばれる特異体質だった。医学的には不可能な現象だが、彼女は確かに存在する。
しかし、世界は彼女の存在を認めない。
「岡田さん、また妄想が始まっていますね」
担当医の藤原先生は、診察室の白い光の中で穏やかに微笑んだ。私は反論しなかった。六年前から続く同じ会話に疲れていた。
「あなたに妹さんがいないことは、あなた自身がよく知っているはずです」
藤原先生は診察カルテをめくりながら続けた。
「六年前の事故で両親を亡くし、その喪失感から作り出された幻想なんです。時間をかけて向き合いましょう」
六年前——私が十六歳の時、両親と私は交通事故に遭った。両親は即死。私は奇跡的に一命を取り留めたが、脳に軽度の損傷を負った。そして医師たちは言う。私の記憶の一部は改変され、存在しない妹の幻影を作り出したのだと。
私は黙って頷き、処方された薬を受け取った。心の中では、妹の姿を思い描いていた。短い黒髪に大きな瞳、そして常に無表情な顔。彼女は呼吸をしないから、表情も乏しい。それでも彼女は確かに、私の妹だった。
病院を出ると、肌に冷たい風が触れた。深呼吸をする。空気が肺に入り込む感覚は、何気ない日常の奇跡だと思う。妹にはこの感覚がない。
アパートに戻ると、玄関のドアが少しだけ開いていた。誰かが侵入した形跡がある。私は緊張しながらも、ドアを押し開けた。
部屋の中央に、彼女が立っていた。
「お帰り、お兄ちゃん」
妹は静かに言った。その声には空気の振動がない。まるで直接、脳に響くかのようだ。
「なぜここに?」
六年間、妹の姿を見たのは夢の中だけだった。現実世界で彼女を目にするのは、事故以来初めてのことだ。
「時間がないの」
妹は窓際に歩み寄った。外は夕暮れで、赤い光が部屋を染めていた。
「何の時間が?」
「世界の。みんなの」
妹の言葉は意味不明だったが、不思議と私は理解できた。それは彼女の特異性と関係がある——彼女が息をしない理由と。
「あの事故の日、世界は分岐したの」
妹は窓ガラスに手を当てた。ガラスが僅かに震え、波紋が広がる。
「お兄ちゃんと私は違う世界の住人になった。お兄ちゃんは呼吸をする世界に残り、私は息のない世界に行ったの」
私は混乱した。これは幻覚なのか、それとも現実なのか。薬の副作用かもしれない。しかし妹の存在感はあまりにも鮮明だった。
「でも、息のない世界って……」
「そう、酸素のない世界。今のこの世界も、少しずつ息ができなくなっている」
妹は振り返り、私の目をまっすぐ見つめた。彼女の瞳には、星が瞬いているような光があった。
「二〇三〇年、地球の大気中の酸素濃度は急激に低下し始める。人々は徐々に呼吸が苦しくなり、やがて……」
妹の言葉は途切れた。彼女は宙を見つめ、何かを感じ取っているようだった。
「私たちの世界では、それがすでに起きた。ほとんどの生命が絶滅し、わずかな人間だけが適応した。私たちは呼吸をしない。体内で光合成に似た化学反応を起こすことでエネルギーを得ている」
妹の肌が僅かに緑色に輝いた。それは本当に光合成のようだった。
「なぜ私に会いに来たの?」
「お兄ちゃんなら変えられると思ったから」
妹は私の手を取った。その感触は冷たく、しかし確かに実在していた。
「どうやって?」
「お兄ちゃんは両方の世界を知る唯一の人。脳の損傷のおかげで、あなたは世界線の分岐点を見ることができる。原因を見つけて、それを止めるの」
妹は私の手を強く握り、急に表情が変わった。
「見つけたわ。原因は……」
その瞬間、部屋の空気が重くなり、呼吸が苦しくなった。まるで酸素が急速に失われているかのようだ。窓の外では、空が異常な赤さを帯びていた。
「聞いて、お兄ちゃん。原因は量子相転移実験よ。二〇二六年、南極で行われる実験。それが大気の化学組成を不可逆的に変える引き金になる」
私は息苦しさで床に崩れ落ちた。意識が遠のく。妹の声が遠くから聞こえる。
「忘れないで。南極、二〇二六年、量子相転移……」
目を覚ますと、私はベッドの上にいた。外は夜。アパートの部屋は平常通りで、呼吸も普通にできる。悪い夢を見たのだろうか。
枕元には診察後にもらった薬が置いてある。手に取ろうとして、私は凍りついた。薬の隣に、一枚の写真があった。そこには妹と私が写っている。背景は南極の研究基地のようだ。写真の裏には日付があった——2026年5月3日。
私はそっと写真を置き、窓を開けた。大きく息を吸い込む。今の世界には、まだ豊かな酸素がある。息をする喜びがある。
そして、それを守るために私ができることを考えた。あと四年。私には時間がある。
電話を手に取り、番号を押す。
「もしもし、藤原先生ですか? 今日の診察のことですが……」
妹の存在を否定するのではなく、彼女からのメッセージを伝えるべきだと思った。たとえ狂人のレッテルを貼られようとも。
電話の向こうで藤原先生が応答する。その時、私の視界の端に、窓際に立つ妹の姿が一瞬だけ見えた気がした。彼女は無言で頷いていた。呼吸のない世界から、変化の可能性を見つめて。