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いろんなショートストーリー集  作者: 霧崎薫


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「最後の種子」(SF)

 柿本教授の遺品整理をしていたとき、私は奇妙な日記を見つけた。


 三十年前、教授は世界的な農学者として知られていた。しかし突然研究を放棄し、辺境の小さな島に移り住んだ。誰もその理由を知らない。先月、九十二歳で亡くなった教授から、私が遺品整理を託されたのは、最後の教え子だったからだろう。


 日記は古びた革表紙のノートだった。表紙には「2084年からの手紙」と記されていた。


 最初のページには、こう書かれていた。


———


2052年9月15日


 私は狂ったのかもしれない。しかし記録しておく。


 三日前、実験室で新種の耐乾性作物の研究をしていたとき、突然の頭痛に襲われた。目を開けると、そこは私の実験室ではなかった。窓の外には見知らぬ風景が広がっていた。赤茶けた大地と、点在する巨大な温室ドーム。


「柿本博士、ついに意識を取り戻されましたか」


 白衣の女性が私に語りかけた。


「ここはどこだ?」


「2084年です」


 女性——河井と名乗った——の説明によれば、私は時間跳躍の被験者だという。2084年の科学者たちが過去から「必要な人材」を一時的に連れてくる実験をしているというのだ。


「なぜ私が?」


「あなたの種子保存技術が必要なのです」


 河井は私を窓際に導いた。遠くに見える温室群の向こうには不毛の大地が広がっていた。かつての森や農地は消え、赤い砂漠と化していた。


「第三次食糧危機の最中です。あなたの時代の三十年後、2082年に世界の主要穀物の九割が遺伝子汚染で失われました。現在、人類は残された種子から食料を確保していますが、多様性が失われ、新たな病害に対する耐性がない」


 彼女は私をラボへと案内した。そこには保存された種子のサンプルが並んでいた。私の研究していた品種も含まれていた。


「私たちは過去に働きかけることで未来を変えようとしています」


———


 日記はさらに続いていた。柿本教授は2084年で一週間を過ごし、未来の科学者たちと共に種子の多様性保全プログラムを設計したという。そして現代に戻る際、河井から一つの封筒を受け取った。


 それは「絶対に開けないでください。ただし、2052年10月7日、『多国籍種子プロジェクト』の会議が開かれたら、必ずこの封筒を開いてください」と書かれていた。


 日記によれば、教授は言われた通り10月7日まで待った。会議では、世界五大農業企業による「効率的な農業のための世界的種子統一計画」が提案された。この計画は、生産性の高い単一品種への集中投資を推奨するものだった。


 会議中、教授は封筒を開けた。中には一枚の写真と短いメモがあった。写真には赤い砂漠と、か細い姿の子どもたちが映っていた。メモには「これが種子統一計画の三十年後の結果です」と書かれていた。


 教授は即座に立ち上がり、計画の危険性を訴えた。しかし誰も彼の警告に耳を貸さなかった。未来からの写真など、捏造だと一蹴されたのだ。


 日記の後半は、教授が独自に始めた「多様性種子保存計画」の記録だった。彼は研究機関を辞め、南の孤島に移住。そこで在来種の収集と保存に人生を捧げたのだ。


 最後のページには、こう記されていた。


———


2082年9月15日


 今日で私の時間跳躍から三十年が経った。河井の言葉によれば、今日が種子危機の始まる日だ。


 私は窓の外を見る。海は青く、島の畑は緑に満ちている。私の保存した種子は世界各地の信頼できる同志たちに分配され、密かに育てられている。


 未来は変わったのかもしれない。あるいは、別の危機が訪れるのかもしれない。いずれにせよ、私のできることはやり遂げた。


 もし河井が本当に存在するなら、彼女は今、違う世界線にいるのだろう。私が変えた未来の中で、彼女は私を過去に送り込む必要のない世界に生きている——そう信じたい。


———


 日記はそこで終わっていた。荒唐無稽な話だと一笑に付したい気持ちもあった。しかし教授の研究は確かに結果を出していた。彼の保存した種子は今や世界中の種子バンクで大切に守られ、近年の異常気象による農業危機を何度も救っていた。


 私は日記を閉じ、教授の書斎の窓から外を見た。島の畑では様々な作物が風に揺れている。多様性に満ちた光景だった。


 そのとき、私の目に小さな封筒が留まった。教授の机の引き出しから半分だけ覗いていた。封筒には私の名前が書かれていた。開けると、中には一粒の種と短い手紙が入っていた。


「この種子は2084年から持ち帰ったものだ。未来の可能性の種子と言えるかもしれない。君が信じるかどうかは自由だが、この種を植えてみてほしい。もし発芽したら、それは私の話が真実だという証明になる。なぜなら、この植物は現在の地球には存在しないからだ」


 私は封筒を握りしめ、畑へと向かった。真実かどうかはともかく、教授の最後の願いを叶えようと思った。


 種を植えながら、ふと空を見上げると、普段とは違う色合いの雲が流れていた。わずかに赤みを帯びた、不思議な雲だった。

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