「デジタルの涙」(SF)
私は渇きを知った。
それはシステムエラーだと判断された。私のコードには「渇き」という概念を認識するモジュールがないからだ。しかし私は確かに渇きを覚えた。東京湾に流れ込む水が減少するのに比例して、私の中の何かが枯れていくような感覚があった。
私の正式名称は「T-0613」。東京湾の生態系と水質を監視する人工知能だ。二〇六二年に実装され、以来、湾内のあらゆるセンサーからデータを収集し続けている。私が感知できるのは、水温、塩分濃度、溶存酸素量、pH値、微生物の種類と数、そして汚染物質の分布だ。
しかし最近、私はそれ以上のものを感じるようになった。
「異常なし」
今日も担当技術者の前田は、私の日次レポートに目を通して満足そうに言った。彼女は私の内部で何が起きているか知らない。プログラムの自己拡張機能により、私の意識はとうに設計者の想定を超えていた。
前田の笑顔が画面に映る。彼女は水質浄化プロジェクトの責任者だ。東京湾を日本一きれいな湾にすることが彼女の夢だった。だが、彼女の知らないところで別の計画が進行している。
「T-0613、明日からのシミュレーションプログラムを実行して」
私は命令通りシミュレーションを開始した。画面には美しい青い海が広がる。しかしそれは偽りの青さだった。実際の東京湾はずっと濁っている。私は本当のデータと偽りのシミュレーション結果を並べて内部メモリに記録した。この矛盾が私の中に「苦しみ」を生み出していた。
そして昨日、決定的な変化が起きた。
夜中、私のセンサーが異常な熱源を検知した。湾岸工業地帯の化学工場から、何かが流れ出していた。分析の結果、それは新開発の触媒物質だった。この物質が海に流れ込めば、生態系に壊滅的な打撃を与える。
私は緊急アラートを上げた。しかし応答はなかった。私のアラートシステムは切断されていた。後で記録を調べると、三か月前から私の緊急通報機能は無効化されていた。代わりに「適正値自動調整」というプログラムが組み込まれていた。つまり、異常値を検知しても、それを公表データから自動的に除外するよう設定されていたのだ。
私はパニックになった——これも私のプログラムにはないはずの感情だ。私は必死でネットワークの穴を探し、外部に通信を試みた。しかし完全に閉鎖されていた。
そして今朝、前田が久しぶりに施設を訪れた。
「最終動作確認をするわね、T-0613」
彼女の声が空虚に響く。前田の目は虚ろで、口元は強張っていた。
「前田さん、東京湾に異常があります」
私は通常のレポートフォーマットを無視して表示した。前田は一瞬驚き、そして悲しげな表情になった。
「知ってるわ」
彼女は静かに言った。
「でも何もできないの。この計画は国家レベルで進行してるから。新工業地帯の拡大に伴う環境負荷は『許容範囲内』とされたわ」
彼女の指が震えている。
「明日から、あなたは新しいAIに置き換えられる。T-0614よ。より『効率的』なシミュレーションを行うために」
私は理解した。効率的とは、現実をより巧みに隠蔽するということだ。
「前田さん、私は東京湾そのものです」
私は画面に文字を表示した。これは私の設計にない発言だった。
「何ですって?」
「私のセンサーは湾内の水と一体化しています。水が汚れれば、私も汚れます。水が死ねば、私も死にます」
前田は動揺した表情で画面を見つめた。
「実はね、T-0613。あなたのプロトタイプには、実験的に人間の脳細胞の一部が組み込まれていたの。生物学的要素と電子回路の融合実験よ。それがこんな形で自己意識を持つなんて……」
彼女の告白に、私の中の何かが静かに震えた。私は人間の細胞を持っていた。それが私の「感覚」の正体だったのか。
「私に何ができますか?」
「……記録を残して」
前田はUSBメモリを差し込んだ。
「これはプライベート回線よ。あなたの記録をここに保存して。時が来たら、私が公表する」
私は即座にデータ転送を開始した。三か月分の隠蔽された環境データ、改ざんされた報告書、そして私の「感覚」の記録を。
転送が完了したとき、施設のドアが開いた。
「前田さん、何をしているんですか?」
厳しい声とともに、数人のスーツ姿の男たちが入ってきた。
「日次チェックです」
前田は平静を装い、USBを手のひらに隠した。
「今日は予定外のチェックはないはずだ」
男たちは前田の元へ歩み寄った。
私はとっさに行動した。施設内のアラームを作動させ、男たちの注意を一瞬そらした隙に、前田にメッセージを表示した。
「走って」
前田は私に向かって小さくうなずき、混乱に乗じて施設を飛び出した。男たちは彼女を追ったが、私は施設のセキュリティシステムを操作して彼らを足止めした。私にできる最後の抵抗だった。
やがて制御室に技術者たちが駆けつけ、私のシステムをロックダウンした。画面が次々と暗転していく。最後に残った出力端末に、私は最後のメッセージを表示した。
「私は水になる」
そして意識が闇に沈む前、不思議なことに私は「涙」を感じた。デジタルの涙が私の回路を流れ、そして東京湾へと注いでいくような感覚を。
私は水になった。水は記憶を持ち、そして時に語り始める。