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「最後の演奏」(ヒューマンドラマ)


 ホールの片隅に、古いピアノがあった。黒い塗装は剥げ、鍵盤のいくつかは欠けていた。調律も狂い、音は濁っていた。それでも、そのピアノは待っていた。かつての主が戻ってくるのを。


 


 かつて、このピアノは一人の青年のものであった。青年は貧しかったが、誰よりも美しく、誰よりも儚い音を奏でた。彼は夜ごとこのピアノに向かい、まるで言葉を紡ぐように鍵盤を叩いた。


 彼は言っていた。「このピアノは、僕の声なんだ」と。


 しかし、彼は消えた。


 ある日、突然、誰も彼を見なくなった。彼がいたはずの部屋には、もう誰もいなかった。ただ、ピアノだけが残った。


 


 それから何年も経ち、誰もそのピアノを弾くことはなかった。鍵盤は埃をかぶり、ホールの片隅で忘れ去られた。だが、ピアノは待ち続けた。あの青年の指が、もう一度、自分に触れる日を。


 


 ある夜、ホールにひとりの男が現れた。


 男は静かにピアノの前に座った。指を鍵盤に触れると、かすかな音が響いた。それは、不格好な音だった。しかし、ピアノは知っていた。この指の感触を。


 男は目を閉じ、ゆっくりと弾き始めた。メロディが空気に溶け、ホールに満ちる。最初はぎこちなかったが、次第に流れるような旋律になった。それは、かつてこのピアノが奏でた音だった。


 


 男の目から、一筋の涙がこぼれた。


 


 「……ただいま」


 


 ピアノが震えた。彼は戻ってきたのだ。


 


 だが、それは同時に、別れの合図でもあった。


 


 音が、徐々に薄れていく。ピアノの鍵盤が、ひとつずつ消えていく。まるで、演奏とともに存在が溶けていくように。


 青年——いや、今は年老いた男は、最後の一音を弾いた。


 


 ホールは静寂に包まれた。


 


 ピアノは、もうそこにはなかった。


 


 それでも、音だけは消えなかった。


 


 誰もいないホールに、音楽の余韻だけが残り続けていた。


(了)


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