「通りの向こう」(ホラー)
その男を最初に見かけたのは、仕事帰りの夜だった。
職場の近くの横断歩道で信号待ちをしていると、向かいの歩道に立つ奇妙な男が目に入った。古びたスーツに、少し大きめの黒い帽子。顔の輪郭がはっきりしない。街灯の下にいるのに、妙に影が濃かった。
だが、その時は大して気にしなかった。疲れていたし、見知らぬ誰かの風貌など、普段なら気にも留めない。
信号が青に変わった。俺は歩き出した。
と、その瞬間——向かいの男もまったく同じタイミングで歩き出した。
まるで鏡のように。
俺はほんの少しだけ足を速めた。男も同じように速めた。
逆に足を遅くした。男もまた遅くした。
ぞくりと背筋が粟立つ。
目を凝らして男を見つめた。その顔が……妙だった。確かに鼻も口もある。けれど、どこか曖昧で、ピントが合わないような違和感がある。
——俺は、こいつを知っているのか?
そんな気がしてならなかった。
横断歩道を渡り終えた瞬間、男はすっと角を曲がって見えなくなった。
俺は胸を撫で下ろし、家路を急いだ。だが、その夜、どうしても眠れなかった。あの男の顔が、まぶたの裏にこびりついていた。
次の日も、同じ場所で、あの男がいた。
そしてまた、俺の動きに完璧に呼応するように歩き出した。
違う道を選ぼうとしたが、なぜか足が動かない。まるで見えない糸で操られているようだった。
胸が締めつけられるような感覚の中、俺は横断歩道を渡る。男も渡る。
このままでは、奴とすれ違う。
交差点の中央で、俺は思い切って目をそらさずに男を見た。
——瞬間、俺は息を呑んだ。
男の顔が、俺だった。
俺は悲鳴を上げ、思わず後ずさる。
男も全く同じ動きをした。
そして、俺が目を見開いた瞬間——
俺の身体が、崩れた。
気がつくと、俺は向かいの歩道に立っていた。
黒い帽子をかぶった、古びたスーツの男として。
目の前の横断歩道では、俺——いや、新しい「俺」——が青信号を待っている。
俺は静かに、彼の動きを見つめていた。
——信号が青に変わる。
(了)