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いろんなショートストーリー集  作者: 霧崎薫


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「本日のシェフおすすめ」(ホラー)

〔『深淵の食卓』第38話「伝説の料理人」より書き起こし〕


 湖畔の小さな町、マリンビューに位置する「シェフ・モリスの深海食堂」は、グルメ通の間で密かな人気を誇る隠れ家的レストランである。創業者であるジョセフ・モリスは84歳の今日も厨房に立ち続けている。


『食材の選び方には徹底的にこだわります。特に魚介類は、私自身が仕入れに行きますからね』


 カメラに向かって微笑むモリスの顔には、深い皺が刻まれている。その目は青く澄んでいるが、どこか遠くを見ているような印象を受ける。


『今日も夜明け前に湖に出ますよ。さあ、ご一緒に』


 〔カメラは霧に包まれた湖面を映し出す。時刻は午前4時。モリスは小さなボートに乗り込み、オールを漕ぎ始める〕


 霧の向こうから、まるで誰かが息をするような音が聞こえる。シャー、シャーというリズミカルな音。カメラマンのマイクが拾った音声を、後に音響技術者は「湖面を渡る風の音」と説明した。しかし、その日は無風だった。


『この湖には普通の魚だけじゃない。特別なものが棲んでいるんですよ』


 モリスの声は穏やかだが、その言葉には独特の重みがある。


『この町に来る前、私は五つ星レストランで働いていました。料理の腕は確かだったが、心が空っぽだった。そんな時、この湖からの「呼び声」を聞いたんです』


 モリスはオールを休め、湖の中央で立ち上がる。


『今夜のスペシャルは、「深淵の目覚め」。これを作るには特別な食材が必要なんです』


 彼はポケットから小さな瓶を取り出し、中身を湖に注ぐ。液体は濃厚な赤色で、血のようにも見える。湖面に広がったそれは、やがて渦を巻き始める。


『彼らは血の匂いに惹かれてくる。でも普通の血じゃダメなんです。特別な人の……そう、特別な体質を持った人の血液が必要なんです』


 カメラマンのトムは不安を感じ始めた。撮影前、モリスは「料理番組の撮影協力」としてトムから少量の血液サンプルを提供してもらっていた。「料理の化学反応を見せる実験のため」という説明だった。


 湖面が波打ち、何かが上昇してくる。カメラは捉えようとするが、霧と波の間に見えるのは、ただの影だけだ。


『私の料理が特別だと言われる理由。それは、このマリンビュー湖の恵みを、私だけが調理できるからです』


 モリスは何かを引き上げている。映像には映らないが、彼の動作から判断すると、相当重いものを船に引き揚げたようだ。


『さあ、厨房に戻りましょう』


 〔場面転換:レストランの厨房〕


 モリスは包丁を研ぎながら語り続ける。


『調理の神髄は、食材を理解すること。私の食材は特別だから、調理法も特別なんです』


 カメラは作業台に置かれた何かを映そうとするが、モリスの体がそれを隠している。時々、濡れた音と、ぶつぶつという沸騰音が聞こえる。


『味の秘密は塩加減ではなく、共鳴なんです。食材と調理人の共鳴。そして、食べる人との共鳴』


 モリスの手元で何かが動いたように見えた。カメラマンのトムは思わず声を上げそうになる。


『あなたは特別な体質をお持ちだ。だから、特別なものが見えてしまう。ほとんどの人には見えないものが』


 モリスはトムに視線を向ける。その青い目は、もはや人間のものとは思えない深さを湛えていた。


『心配しないで。あなたに危害は加えませんよ。むしろ、特別なゲストとして、最高のもてなしをします』


 〔場面転換:レストラン客席〕


 蝋燭の灯りだけが照らす店内。テーブルに座ったトムの前に、特製の皿が運ばれてくる。


『本日のシェフおすすめ。「深淵の目覚め」です』


 皿の上には、見たこともない食材が盛り付けられている。半透明の何かは、まるで内側から微かに光を放っているようだ。その周りには見慣れた野菜やハーブが添えられ、一見すると高級レストランの芸術的な一皿にも見える。


『最初の一口で、あなたは変わります。二口目で、理解が始まる。三口目で……』


 モリスは言葉を切り、穏やかに微笑んだ。


 トムはフォークを手に取る。その手が震えている。カメラは自動モードで回り続けている。


 最初の一口。口の中で広がる味は、この世のものとは思えない複雑さだ。甘さ、旨味、そして名状しがたい第六の味覚。


 トムの瞳孔が開き、彼は湖を見ている。いや、湖の底を。そこに広がる古代の都市の遺跡。水中とは思えない建築物。そして、それらの間を泳ぐ存在。


 二口目。舌の上で脈打つ食材。まるで生きているかのように。トムの意識は拡張していく。彼はモリスの記憶を見ている。若き日のモリスが湖で溺れかけた時、水中から彼を救った「何か」との契約。以来、モリスは「彼ら」に食事を提供する代わりに、特別な料理の知識を授かっていた。


『分かりますか? 私たちは食べるだけの存在ではない。時に、食べられる存在でもあるのです』


 モリスの声が遠くから聞こえる。


 三口目。最後の一片を口に入れた瞬間、トムの視界は一気に広がった。彼は地球を外から見ていた。そして宇宙の彼方には、地球を「餌場」としか見ていない巨大な意識が浮かんでいた。


 トムの体から冷や汗が噴き出す。彼の喉から言葉にならない声が漏れる。カメラはそれを全て記録している。


『大丈夫、すぐに慣れますよ。あなたは今、選ばれたんです。次の「料理人」として』


 モリスは親しげにトムの肩に手を置いた。


『私はもう長くない。次はあなたの番だ。湖の民に食事を提供し、その見返りに、特別な料理の知識を得る。そして時々、特別な客人に「本日のシェフおすすめ」を振る舞う。彼らはいつも、新しい料理人を必要としているのです』


 トムの目には涙が浮かんでいたが、それは恐怖の涙ではなかった。啓示を受けた者の、畏怖の涙だった。


『さあ、残りも食べなさい。そうすれば全てが明らかになる』


 トムはフォークを再び手に取る。もはや迷いはない。彼は運命を受け入れていた。


 〔映像はここで唐突に終了する。「深淵の食卓」第38話の放送後、制作クルーは行方不明になったとされる。マリンビュー湖畔の「シェフ・モリスの深海食堂」を訪れた調査チームは、廃業したレストランの跡地しか見つけられなかった。しかし、地元住民の話によれば、霧の深い夜には、湖畔に新しいレストランが出現するという噂がある。そのシェフは若く、かつてカメラマンだったとも言われている〕


 ――この記録映像は、行方不明になった制作クルーの遺品から回収されたものです。視聴者の皆様にはくれぐれもマリンビュー湖への接近を控えるようお願いいたします。


〔番組終了〕

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