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「二重写しの証人」(ミステリー)

 事件現場に最初に到着したのは私だった。いや、正確に言えば、私とあの男だった。


 暗い路地の奥で横たわる死体。顔面は殴打によって損傷し、識別不能だった。雨が血を薄め、赤い水溜りが路地を流れていた。


「ミハイロフさん、現場検証をお願いします」


 刑事課長の声が雨音に混じって聞こえる。私は無言で頷き、ゴム手袋をはめ始めた。十五年間、私はこの街で法医学捜査官として働いてきた。この程度の惨状に動揺することはもうない。


 しかし、その日は違った。


 死体の向こう側に、もう一人の私が立っていたのだ。


 全く同じ顔、同じ体格、同じ制服を着た男が、私と同様に死体を見下ろしていた。だが誰も彼の存在に気づいていない様子だった。


「見えるのか?」


 彼が私に向かって口を開いた。周囲の警官たちは彼の声に全く反応しない。


 私は動揺を隠しながら小さく頷いた。


「おもしろい。これまで見えた者はいなかった」


 彼は死体の周りを歩き始めた。その足音は聞こえず、水たまりにも波紋を作らない。


「あなたは…幽霊ですか?」


 私は小声で尋ねた。隣にいた若手刑事が不思議そうに私を見たが、すぐに仕事に戻った。


「幽霊?」彼は笑った。「いいや、私はあなただ。別の選択をしたあなた」


 私は黙って現場検証を続けた。死因は鈍器による頭部損傷。犯行時刻は午後九時から十一時の間と推定される。


 検証が終わり、遺体が運び出された後も、彼は私についてきた。パトカーの中、オフィス、そして自宅まで。


「何が欲しいんだ?」


 アパートのドアを閉め、ようやく二人きりになったとき、私は彼に向かって怒鳴った。


「欲しいものなど何もない。ただ…君と話したかっただけだ」


 彼の声には、どこか懐かしさがあった。それは遠い日の、私自身の声だった。


「十七年前、君は選択をした」


 彼はソファに腰掛けた。動作は私とそっくりだった。


「その日、ニコライ・ペトロヴィッチの殺害事件で、君は証拠を改ざんした」


 私の体が硬直した。誰にも話していない秘密。十七年前、出世のためにある証拠を隠した。それによって無実の男が有罪となり、後に獄中で自殺した。


「私の世界では、君はその証拠を提出した」彼は続けた。「そして出世の道を失った。だが、良心は保った」


 私は震える手でウォッカのボトルを掴み、グラスに注いだ。


「出世?」私は苦笑した。「私は今でも単なる法医学捜査官だ。何も変わっていない」


「そうだな」彼は窓の外を見た。「私も同じ仕事をしている。だが、夜に眠れるんだ」


 私は一気にウォッカを飲み干した。


「どうして今、現れた?」


「明日の事件のためだ」


 彼の言葉に、私は眉をひそめた。


「明日、君は大きな選択を迫られる。今回は人生を変える選択になる」


 その晩、彼は私の部屋のソファで眠った。奇妙なことに、彼がいることで私は久しぶりに安眠できた。


 翌朝、眠りから覚めると彼の姿はなかった。幻覚だったのかもしれないと思ったが、ソファにはくぼみがあり、毛布は丁寧に畳まれていた。


 オフィスに着くと、所長の緊急招集があった。


「重大発表がある」


 所長の表情は硬い。


「昨日発見された遺体の身元が判明した。市長の息子、アレクセイ・ソロビヨフだ」


 室内がざわめいた。市長は警察上層部と癒着していることで有名だった。


「速やかな解決が求められている。容疑者は既に特定された。サーカス団員のロマ人だ」


 所長は写真を示した。若いロマの男性。私は眉をひそめた。


「解剖結果では死亡推定時刻は午後九時から十一時。だが、このロマ人には確かなアリバイがある。その時間、彼は別の町の公演に出ていた」


 所長は私を見た。


「ミハイロフ、死亡時刻の再検討を頼む。午後六時から八時に修正できないか?」


 これが彼の言っていた選択だった。時刻を改ざんすれば、ロマ人のアリバイは崩れる。


「検討します」


 私は事務的に答えた。


 そして解剖室に戻ると、彼が待っていた。


「決めたか?」


 私は長い間黙っていた。十七年前の過ちが、今日まで私を苦しめてきた。もう一度同じ過ちを繰り返せば、私の魂に残るものはなくなるだろう。


「断る」


 私は静かに言った。「死亡時刻を変更することはできない」


 彼は微笑んだ。その笑顔は、私が鏡で何年も見ていない表情だった。


「その決断には代償がある。覚悟はいいか?」


 私は頷いた。


 その日の夕方、所長に報告すると、彼の顔は怒りで歪んだ。その通りだった。私は解雇され、医師免許も剥奪された。


 アパートに戻ると、もう一人の私が荷造りを手伝っていた。


「これから、どうするつもりだ?」彼が尋ねた。


「わからない」私は正直に答えた。「だが、久しぶりに自分を見つめられる気がする」


 彼は頷き、窓の外を指さした。


「あそこに行ってみるといい」


 窓からは小さな教会が見えた。以前から気になっていたが、一度も足を踏み入れたことはなかった。


「そこで何が?」


「誰かがあなたを待っている」


 荷物をまとめ終えた頃、彼の姿は徐々に薄くなっていた。


「行くのか?」


「ああ」彼は微笑んだ。「私の役目は終わった。私はもう必要ない」


 彼が完全に消える前に、私は聞いた。


「お前は本当に私なのか? それとも…良心? 神?」


 彼は笑った。その笑い声は徐々に遠ざかり、最後にこう言った。


「それは君が決めることだ。人生と同じようにね」


 教会に向かう道すがら、私は彼の言葉を考えていた。並行世界は本当に存在するのか? それとも私の罪悪感が生み出した幻想なのか?


 教会の扉を開けると、中は空っぽだった。がっかりして振り返ろうとしたとき、一人の女性が聖歌隊席から現れた。


「ミハイロフさん?」


 彼女の顔を見て、私は息を呑んだ。十七年前、私が罪に陥れた男の娘だった。


「私を覚えていますか? イリーナ・コワレンコです」


 彼女の表情に憎しみはなかった。


「ずっとあなたに会いたかった。父は獄中でも、あなたのことを信じていました」


 私の目に涙が浮かんだ。


「父の本当の潔白を証明してくれる人を探していたんです」


 その夜、私たちは長い時間話した。彼女は父親の無実を証明するために弁護士になっていた。そして今、新たな証拠が見つかり、再審請求の準備を進めていたのだ。


 私は決意した。すべてを話し、証言することを。今度は正しい選択をするために。


 アパートに戻る途中、路地の角で一瞬、彼の姿を見た気がした。だが近づくと、そこにいたのは街灯の影だけだった。


 明日から私の新しい人生が始まる。ついに私は、自分自身の証人となるのだ。

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