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「潮騒の記憶」(ファンタジー)

 海辺の古い町、カイエタの住人たちは、海からの贈り物を恐れていた。それは春の満月の夜に必ず訪れ、砂浜に何かしらを残していくという。誰も贈り物の正体を見たことはなく、ただそれが残した跡だけが朝になると現れるのだった。


 うねるような模様、螺旋や円を描く砂の文様。時には小さな洞窟が掘られていることもあった。これらは不吉な前兆と考えられ、その年は漁に出ないという決まりがあった。


 だが、町の漁師サンティアゴはその決まりを信じていなかった。


「迷信は貧乏人の知恵だ」


 彼はそう口にしながら、毎年欠かさず漁に出た。そして不思議なことに、他の船が空で帰る日も、サンティアゴの船だけは常に豊漁だった。


 サンティアゴには秘密があった。彼は海からの贈り物を受け取っていたのだ。


 毎年春の満月の夜、サンティアゴは一人で砂浜へ向かう。波間から現れる姿を、彼だけが知っていた。


 それは人の上半身と魚の下半身を持つ生き物ではなかった。ありふれた人魚の姿ではなく、まるで人間と同じ姿をしていたが、その肌は真珠のように光を放ち、呼吸するたびに鰓が首筋に現れた。


「長い間待ったぞ、エステラ」


 サンティアゴが言うと、海の女は淡い微笑みを浮かべた。彼女の声は潮騒のような響きを持っていた。


「あなたの髪が、また白くなりましたね」


 彼女の指がサンティアゴの鬢に触れる。その感触は海藻のようにぬめり、同時に海水のように冷たかった。


 エステラとの出会いは五十年前——漁に出て嵐に遭い、船が転覆したときだった。溺れかけたサンティアゴを救ったのは彼女だった。以来、毎年春の満月に二人は会い、エステラは町を守るための警告と、サンティアゴへの漁場の情報を伝えていた。


「今年は大きな嵐が来る」


 エステラの目は深い海のように青く、その中に不安の色が揺れていた。


「それだけではないの。海が怒っている——人間たちの仕業に」


 サンティアゴは嵐の知らせに眉をひそめたが、後半の言葉には特に注意を払わなかった。彼の関心はただ一つ——どこで漁をすれば豊漁になるか、それだけだった。


「北の入り江に行きなさい。そこにはまだ魚がいる」


 エステラの言葉は常に正確だった。サンティアゴは満足げに頷いた。


「ありがとう、エステラ。来年もまた会おう」


 だが、エステラの表情は沈んだままだった。


「次に会えるとは限らないわ」


 サンティアゴはその言葉の意味を考える前に、彼女は既に波の中へと消えていた。残されたのは砂浜の螺旋模様だけ。


 予告通り、その年は大嵐が訪れた。だが、北の入り江で漁をしていたサンティアゴは無事だった。町に戻ると、彼は恐ろしい光景を目にした。


 波に攫われた家屋、流された道路。そして海岸線には見たこともない量のゴミが打ち上げられていた。プラスチック、漁網、石油の塊——あらゆる人間の廃棄物が、津波によって町に返されたのだ。


 驚いたのはそれだけではなかった。砂浜には無数の魚が打ち上げられ、その腹から同じくプラスチックの欠片が見えていた。


「海が…怒っている…」


 エステラの言葉が頭の中で鳴り響いた。


 それから一年、サンティアゴは海岸の清掃に全力を注いだ。だが、老いた彼一人の力では限界があった。春の満月が近づくと、彼はいつものように砂浜へ向かった。


 しかし、エステラは現れなかった。


 代わりに砂浜に打ち上げられていたのは、人間の上半身と魚の下半身を持つ生き物の死体だった。それはおとぎ話に出てくる人魚そのものの姿。


 サンティアゴは呆然と立ち尽くした。エステラとはまったく違う姿だ。彼は膝をつき、その生き物を抱き上げた。


 すると、死体の顔が変化し始めた。鱗が剥がれ落ち、その下からエステラの顔が現れたのだ。


「エステラ…!」


 彼女の目が弱々しく開いた。


「嘘をついてごめんなさい、サンティアゴ」


 彼女の声はもはや潮騒ではなく、か細い息遣いだった。


「私たちは…変身するの。人間に近づくときだけ…人間の姿になる」


 サンティアゴは混乱した。


「なぜ…?」


「あなたたちに恐れられたくなかったから」


 エステラはかつて人間との接触を試みた同族が、その姿から「怪物」とされ殺されたことを語った。真の姿を見せれば、助けを求める声も届かないと。


「海は死にかけている、サンティアゴ。私たちも同じ」


 エステラの皮膚には、プラスチックが埋め込まれたように突き刺さっていた。


「伝説では、人魚の涙は真珠に変わるというわ」


 彼女の頬を一筋の涙が伝った。それは地面に落ち、小さな真珠となった。


「でも本当は、私たちの体が変わるの。死ぬとき…私たちは全てを明かす」


 彼女の体が変化し始めた。魚の尾は溶け、人間の脚へと変わり、次第に透明になっていく。サンティアゴが抱いていた彼女の体は、次第に水となり、砂に吸い込まれていった。最後に残ったのは、真珠だけ。


 翌朝、町の住民たちは砂浜に駆けつけた。そこには奇妙な砂の文様と、老漁師サンティアゴの亡骸があった。彼の手には一粒の真珠が握られていた。


 真珠の中には、微小ながら完全な生態系が息づいていた。それは新しい海の始まりだった。


 その日以来、カイエタの町は海を敬うようになった。人々は砂浜を清め、漁は必要な分だけに制限した。


 そして春の満月の夜、波間から現れる姿を、もはや恐れることはなくなった。それは長い間「海からの贈り物」と誤解されてきた警告だったのだから——。

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