「忘却の密室」(SF)
私は今日も仕事をしている。人々の記憶から何かを消し去るという仕事だ。これは、人間にとって必要不可欠なサービスであると自負している。過去の苦痛、心の傷、時には喜びさえも——すべては私の手によって慎重に取り除かれる。
「今日はどんな記憶をお持ちですか?」
私は目の前の女性に尋ねた。彼女の名前はカンナ。三十代半ばで、目の下にはうっすらとクマがあった。
「捨てたい記憶があるんです」
カンナは小さな声で言った。彼女の指先が震えている。
私は穏やかに微笑みかけた。この仕事を始めて十年になるが、緊張する依頼者は珍しくない。誰もが大切な何かを手放そうとしているのだから。
「恐れることはありませんよ。ただ、その記憶を私に話してください」
カンナは深呼吸をした。
「三年前の夏の出来事です。私は当時——」
彼女の言葉を聞きながら、私は準備を始めた。机の引き出しから古い万年筆と一枚の白紙を取り出す。これが私の道具だ。
万年筆のインクは特殊だ。記憶を書き留め、そして消し去るための、特別なインクである。書き留められた記憶は、やがて紙の上から消えていく。それと同時に、依頼者の脳からもその記憶が薄れていく。
カンナの話は二十分ほど続いた。恋人との別れ、裏切り、悲しみ、そして怒り——すべてを私は静かに紙の上に記していった。
「これで全部です」
カンナが話し終えると、私は万年筆のキャップを閉じた。彼女の目には涙が浮かんでいた。
「これから記憶が少しずつ消えていきます。最初は詳細から、そして次第に出来事そのものも。三日後には完全に忘れているでしょう」
カンナは安堵の表情を浮かべた。
「ありがとうございます。これで前に進めます」
彼女が帰った後、私はいつものように紙を机の上に置いておいた。インクが乾くと、文字は数時間かけて徐々に消えていく。美しい現象だと私は思う。
その日の終わり、最後の依頼者を見送った後、私はいつものように紙を集め始めた。カンナの紙を見ると、文字はすでに半分ほど消えていた。しかし、何かがおかしい。
通常、文字は上から順に消えていくはずだが、この紙は違った。残っている文字だけを追っていくと、それは別のメッセージを形作っていた。
「私を忘れないで」
私は動揺した。十年間、こんなことは一度もなかった。紙をじっと見つめていると、さらに文字が消え、新たなメッセージが浮かび上がる。
「あなたは私を忘れた」
頭が痛み始めた。何かを思い出そうとしているような、しかし思い出せないような、奇妙な感覚。私はカンナの顔を思い出そうとした。しかし、不思議なことに、彼女の顔が定かではない。
次の瞬間、強烈な閃光が頭の中を突き抜けた。
記憶の断片——。
三年前の夏。私とカンナ。海。笑顔。キス。約束。
「忘れないよ、絶対に」
そう言ったのは私だった。
私は震える手で机の引き出しを開けた。そこには何枚もの白紙があった。取り出してみると、それらは完全な白紙ではなかった。うっすらと文字の痕跡がある。よく見ると、それはすべて同じ文章だった。
「私を忘れないで——カンナより」
私は椅子に崩れ落ちた。理解し始めていた。私自身が、自分の記憶を消していたのだ。そして、それを繰り返していた。カンナとの約束を破ったという罪悪感から逃れるために。
ドアが開く音がした。
「また来てしまいました」
カンナの声だ。私は振り返った。彼女は三年前と変わらない姿でそこに立っていた。
「あなたは毎週来ているんだよ」と私は言った。「そして、私は毎回あなたの記憶を消すふりをする。でも実際は——」
「あなたが自分の記憶を消しているのね」
カンナが悲しそうに言った。
「私たちはこれを何度繰り返したのかしら?」
「覚えていない」と私は正直に答えた。「でも、今日は違う。今日は——」
言葉が途切れた。何か重要なことを言おうとしていたのに、それが何だったか思い出せない。
「大丈夫です」
カンナが優しく微笑んだ。
「また来週会いましょう」
彼女が去った後、私は机の上の紙を見た。何も書かれていない。ただの白紙だ。
なぜだろう? なぜこの白紙を大切そうに持っていたのだろう?
私は首を振り、紙を引き出しにしまった。明日からの依頼者のために新しい紙を用意しなくては。
人々の記憶から何かを消し去るという、大切な仕事がある。これは、人間にとって必要不可欠なサービスだと私は自負している——。