『記憶の箱庭』(ヒューマンドラマ)
古びた実家の縁側で、祖母は箱の中の古い写真を一枚ずつ眺めていた。
「おばあちゃん、何を見てるの?」
私は夏休みを利用して、久しぶりに祖母の家に帰省していた。大学院で歴史学を専攻する身として、祖母の手元にある古い写真が気になった。
「あら、美咲。ちょうどよかったわ。この写真、見てみない?」
祖母は一枚の白黒写真を差し出した。
そこには見知らぬ洋館が写っていた。どこか西洋風でありながら、日本建築の要素も感じられる不思議な建物。写真の端には「1945年 春」と記されている。
「これ、どこの建物なの?」
「ここよ」
祖母の言葉に、私は目を疑った。
「え? でも、この家は平屋じゃない……」
「今はそうね。でも昔は違った」
祖母の声には、懐かしさと何か言いよどむような響きがあった。
「実はね、この家には秘密があるの」
祖母は静かに語り始めた。
***
私の名は志村千代。今の美咲から見れば、ただの年老いた祖母だ。でも、あの頃の私は17歳。この洋館で過ごした日々を、今でも鮮明に覚えている。
1945年、この家は軍の施設として使われていた。父は建築家で、この洋館を設計した人物だった。戦時中、多くの建物が軍に接収される中、父はこの家を守るため、自ら軍への協力を申し出た。
暗号解読の施設として使われたこの館で、私は文書の整理を手伝っていた。そこで出会ったのは、若き数学者の山下少尉。彼は暗号解読の天才だった。
「この建物の設計、実に興味深いですね」
ある日、山下少尉はそう言って館の構造について語り始めた。
「この螺旋階段、そして八角形の書斎。どこか数式のような美しさがある」
彼の言葉は、父の設計思想を言い当てていた。父は建築に数学的な美しさを込めることを好んだ。
しかし、その会話から数日後、山下少尉は突然姿を消した。そして終戦。この館は、米軍によって接収されることなく、静かに取り壊されていった。
***
「でも、なぜ取り壊されたの?」
私は祖母の話に引き込まれていた。
「美咲は歴史を学んでいるのよね。この建物の真実を知りたくない?」
祖母は立ち上がり、座敷の畳を一枚めくった。
「まさか……」
畳の下からは、幾何学的な模様が刻まれた古い床板が現れた。
「これは暗号よ。山下少尉が残していった」
私は息を呑んだ。床一面に刻まれた模様は、確かに何かのメッセージのように見える。
「おばあちゃんは、この暗号が解けたの?」
「ずっと解けなかった。でも、この家で暮らし続けて、やっと気づいたの。これは暗号じゃない。設計図なの」
祖母は続けて語った。この家の現在の間取りが、実は古い洋館の構造を平面に置き換えたものだということを。
「じゃあ、この家は……」
「そう。洋館は形を変えて、今も生きているのよ」
夕暮れの光が縁側に差し込む。古い写真に映る洋館と、今の家が重なって見えた。
「美咲、あなたはどう思う? この家の記憶を」
祖母の問いかけに、即答はできなかった。歴史は記録されたものだけでなく、建物や人々の記憶の中にも生きている。それは学問として追究してきた私の研究テーマでもあった。
「おばあちゃん、この家のことをもっと調べてみたい」
「そうね。でも急がなくていいの。この家は、きっとまだ多くの物語を隠しているわ」
祖母は静かに微笑んだ。夕暮れの影が長くなる中、古い写真は新たな物語の始まりを予感させていた。
私たちは黙って縁側に座り、沈みゆく夏の陽を眺めていた。過去と現在が交差する空間で、まだ見ぬ真実への期待が、静かに心の中で膨らんでいった。