『雨の日の約束』(お仕事ヒューマンドラマ)
私は傘を持たずに走った。梅雨の晴れ間を信じすぎた代償として、ずぶ濡れになりながら会社の玄関をくぐる。
「おはようございます、田中さん。また傘、忘れちゃいましたか?」
受付の佐々木さんが笑顔で声をかけてくれた。
「はい……また天気予報を見誤ってしまって」
私は自分の不甲斐なさに苦笑いを浮かべながら、ずぶ濡れの髪をタオルで拭った。
この会社に入って3年目。新卒で入社した私は、いつも何かが中途半端だった。仕事は普通にこなせるものの、際立った成果は残せない。かといって失敗するわけでもない。そんな、どっちつかずの日々を送っていた。
「田中さん、企画書の修正お願いできますか?」
上司の村山部長が声をかけてきた。
「はい、承知しました」
机に向かい、モニターに映る企画書を眺める。先週提出した新規プロジェクトの企画だ。いつものように無難な提案。波風は立たないだろうが、誰の心も動かせない内容だった。
窓の外では、相変わらず雨が降り続けている。
「ねぇ、田中さん」
隣の席の木村さんが声をかけてきた。
「何ですか?」
「この前の企画書、面白いアイデアだと思うんだけど、もっと思い切ったことができそうじゃない?」
木村さんは私より2年後輩だが、すでに何件もの企画を通してきた敏腕社員だ。
「そうですかね……でも、リスクが大きすぎると思って」
「田中さんって、傘持ってないときは走るでしょ? でも仕事のときは必要以上に慎重になってない?」
その言葉が、どこか心に刺さった。
その日の帰り道。雨は上がっていたが、私は傘を買って帰ることにした。明日のために。でも、本当に必要なのは明日の雨への備えだけだろうか?
次の日、私は早めに出社した。企画書を一から書き直すためだ。
「おはようございます。今日は傘、持ってきましたね」
佐々木さんが、またいつもの笑顔で迎えてくれた。
「はい。でも、今日は使わないかもしれません」
私は微笑み返した。傘は持っているけれど、あえて雨に濡れてみたくなるような、そんな気持ちだった。
書き直した企画書には、今までの私には考えられなかったような大胆な提案を盛り込んだ。失敗するかもしれない。でも、それは成功する可能性があるということでもある。
「田中さん、この企画書……」
村山部長が、目を丸くして私を見た。
「はい。昨日のものから、大幅に改訂させていただきました」
「リスクは大きいが、面白い。でも、本当にやれる自信はあるのか?」
「はい。やってみたいです」
その言葉を口にした瞬間、自分の中で何かが変わったような気がした。
それから3ヶ月。私の企画は紆余曲折を経て、なんとか形になりつつあった。すべてが順調というわけではない。でも、以前の私なら避けていたであろう課題に、正面から取り組めるようになっていた。
今日も外は雨が降っている。でも、もう雨は怖くない。傘を持っているから安心なのではない。雨に濡れることを恐れなくなったから。
「田中さん、今日の会議でのプレゼン、期待してますよ」
村山部長が声をかけてくれた。
「ありがとうございます。私なりに、精一杯やってみます」
窓の外を見ると、雨の合間から差し込む一筋の光が見えた。私は傘を机の中にしまい、会議室への道を歩き始めた。
時には濡れることを恐れず、飛び込んでみる勇気。それは、きっと私が探していた本当の自分への一歩なのかもしれない。雨は、私に多くのことを教えてくれた。これからも雨は降り続けるだろう。でも、それは新しい私を映し出す鏡になるはずだ。
「よし、行こう」
私は深く息を吸い込んで、会議室のドアを開けた。外では、少しずつ雨が上がりはじめていた。