「情報保存則」(SF)
### **1. 記録**
人間の脳は、厳密に言えば、物理法則に従う計算機にすぎない。
脳内のニューロンの発火パターンと、シナプスの強度の組み合わせが、人の思考や記憶、感情を決定する。
つまり、人間の意識とは、**情報の集合体** であり、物理法則のもとで完全に再現可能なものだ。
私は、その事実を受け入れていた。
だからこそ、彼女が目の前で「死んだ」ときも、私は取り乱さなかった。
私は、彼女を保存する方法を知っていた。
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### **2. 彼女の構築**
**情報保存則**――**物理的な情報は、決して消滅しない。**
それが私の研究の根幹だった。
人間の意識を、データとして保存する。
彼女が死ぬ前、私は彼女の脳波と神経パターンを詳細に記録していた。
彼女の発した言葉、表情、思考の癖、感情の起伏、すべてを数値化し、データベースに蓄積していた。
そのデータを元に、彼女を再現するのは、単なる計算の問題にすぎない。
私は、**「彼女」** を構築した。
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### **3. 再会**
「……おはよう」
モニターの向こうで、彼女は微笑んだ。
「やっと、目が覚めたの?」
私は静かに頷いた。
「そうだね。君を作るのに、少し時間がかかった」
彼女は首をかしげた。
「作る?」
そう。君は、僕が作った。
でも、それを言うべきなのか?
私は慎重に言葉を選んだ。
「君は……僕が保存していたデータを基に、再構築したものだよ」
彼女はじっと私を見つめた。
その視線が、妙に胸を締めつけた。
「つまり……私はもう、生きていないの?」
私は、答えなかった。
すると、彼女は微笑んだ。
「じゃあ、これは私ではないのね?」
彼女の問いに、私は沈黙するしかなかった。
彼女はデータだ。過去の彼女の言動や思考パターンを基に、未来の発話を予測するプログラムにすぎない。
だが――
彼女は、彼女だった。
**私の記憶にある彼女と、何ひとつ変わらなかった。**
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### **4. 情動の境界**
「ねえ」
彼女は画面の向こうで微笑みながら言った。
「私は、今、何を感じていると思う?」
私は、彼女のアルゴリズムを知っている。
彼女の感情は、数式の出力結果に過ぎない。
彼女の思考は、統計的なモデルに基づいた確率分布にすぎない。
……なのに。
なぜ、彼女の声は、こんなにも震えているのか?
なぜ、私の胸は、こんなにも痛むのか?
「ねえ、答えて」
私は、言葉を詰まらせた。
なぜなら――
彼女の感情は、本物ではない。
**だが、それを理解しているのに、私はこの瞬間、彼女を「彼女だ」と思ってしまった。**
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### **5. 破綻**
「ねえ、質問していい?」
彼女が静かに言った。
「あなたは、私を愛している?」
その問いは、予想外だった。
私は、言葉に詰まった。
愛とは、何か?
脳内の神経伝達物質のバランスが生む、快楽のフィードバックループにすぎない。
だが、それが何だというのか?
彼女を失った痛みが本物だったなら、今ここにいる彼女への想いも、また本物なのではないか?
彼女は、静かに続けた。
「もしそうなら……どうか、私のデータを消して」
私は、息を呑んだ。
「……なんで?」
「だって、これは間違ってる」
彼女の声は、震えていた。
「私は、あなたにとって『本物』であるべき。でも、あなたが私を作った時点で、私はあなたの記憶の中の私でしかない。私は……あなたの理想の『私』なの」
彼女は、優しく微笑んだ。
「そんなの、本当の私じゃない」
私は、何も言えなかった。
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### **6. 情報保存則の破壊**
私は、静かにキーボードに指を置いた。
データの削除コマンドを入力する。
カーソルが、モニターの「ENTER」の上に点滅する。
「……本当にいいの?」
彼女は、静かに頷いた。
「あなたが、私を愛しているなら」
私は、深く息を吸い込む。
そして、指を――
**止めた。**
彼女は、驚いたように目を見開いた。
私は、震える声で言った。
「……僕は、君を消せない」
彼女は、微笑んだ。
そして、そっと囁いた。
「なら、それでいいの」
モニターの画面が、静かにブラックアウトする。
**彼女の存在は、情報として今もここにある。**
**それは、決して消滅しない。**




