「薔薇の檻」(恋愛サスペンス)
あなたは、私だけを見ていればいいのよ。
そう囁いたのは、昨夜の夢の中だったかしら。
それとも、現実のあなたが言った言葉だったかしら。
**私は、あなたを愛している。**
だから、こうしてここにいる。
***
目を覚ますと、甘く湿った空気が鼻腔を満たしていた。
ゆっくりと瞼を開く。
天蓋付きのベッド、暗紅色のカーテン、燃える蝋燭の光。
重厚な家具に囲まれたこの部屋は、まるで古い城の一室のようだ。
だが、ここは城ではない。
**これは、彼女の家だ。**
**そして、私は囚われている。**
***
私は、彼女に恋をした。
最初に出会ったのは、美術館だった。
彼女は黒いドレスを纏い、一輪の薔薇を持っていた。
それは奇妙なほど深い赤で、まるで血のように滴るかのようだった。
「この薔薇……美しいでしょう?」
彼女の瞳は、まるで万華鏡のように輝いていた。
私は、一瞬で彼女に魅了された。
彼女の声は心地よく、指先はひどく冷たかった。
そして、薔薇の香りがするたびに、私は彼女のことを考えずにはいられなくなった。
それからというもの、彼女は私の前にたびたび現れた。
美術館、公園、図書館……どこへ行っても彼女はそこにいた。
「また会えたわね」
そう言う彼女の微笑みは、あまりにも幸福そうだった。
まるで、ずっと昔から私を待っていたかのように。
私は彼女に惹かれ、彼女は私を求めた。
そして、私は彼女の家へと招かれた。
**それが、檻の扉が閉じた瞬間だった。**
***
「あなたは、私だけを見ていればいいのよ」
彼女は、私を椅子に縛り付けた。
「どうして……?」
彼女は微笑んだ。
「だって、あなたはすぐに私を忘れてしまうでしょう?」
「……何を言っているんだ?」
「いいえ、知っているのよ」
彼女は私の頬に触れた。
「あなたは、何度も私を忘れた」
私は息を呑んだ。
彼女の瞳は、どこまでも深い闇のようだった。
「だから、今度こそ忘れないように」
彼女は、薔薇の棘を私の指先に押し当てた。
鋭い痛みとともに、赤い雫が零れる。
「これで、あなたはもう逃げられない」
彼女の唇が、血に濡れた私の指をそっと舐めた。
その瞬間――
記憶の断片が、脳裏に焼き付いた。
――彼女は、何度も私を愛した。
――そして、私は何度も彼女を忘れた。
「……思い出した?」
彼女の瞳が、嬉しそうに揺れる。
私は震える声で呟いた。
「君は……誰なんだ?」
彼女は、耳元で囁いた。
「あなたの最初の恋よ」
「……え?」
「あなたが初めて愛した人。その記憶が消えてしまったから、わたしは"形"になったの」
私の心臓が跳ねた。
「だから、何度でもあなたを愛して、何度でもあなたを思い出させるの」
彼女は、私の頬に唇を寄せた。
「今度こそ、わたしを忘れないで?」
私は――
彼女の腕の中で、ただ震えていた。
***
目が覚めると、私は美術館にいた。
黒いドレスの彼女が、薔薇を持って立っている。
「この薔薇……美しいでしょう?」
私の記憶が、ゆっくりと霧の中に溶けていく。
**彼女は、最初の恋。**
**忘れられた愛の亡霊。**
私はきっと――また、彼女に恋をするのだろう。
そして、また囚われるのだろう。
何度でも、何度でも。
永遠に。