「蝶の軌跡」(ヒューマンドラマ)
古びた段ボール箱の中から、一冊の手稿が見つかったのは、梅雨の晴れ間だった。私は大学図書館の地下書庫で、寄贈された未整理資料の分類作業に追われていた。
「これは……」
手に取った瞬間、背筋が凍るような感覚に襲われた。表紙には達筆な文字で「胡蝶の夢」と記されている。昭和初期に活躍し、戦後まもなく失踪したとされる作家・園井千代の直筆原稿だった。
園井は『月下美人』で文壇にデビューし、その後わずか5年で姿を消した謎の女性作家である。当時の新聞には「才能ある新進作家の失踪に文壇騒然」という見出しが躍った。
「これが園井千代の未発表作品だとすれば……!」
私は早速デジタルアーカイブで園井の既刊作品をすべて確認した。文体分析ソフトにかけると、確かに園井特有の語彙選択と文章構造が浮かび上がってきた。
手稿には日記のような走り書きも挟まれていた。
「今日も編集者に言われた。『もっと女性らしい柔らかな物語を』と。だが私の書きたいのは、この歪んだ社会の真実だ」
私は園井の他の作品も読み返してみた。表面上は美しい恋愛小説に見えて、実は当時の女性差別や階級制度への痛烈な批判が織り込まれていた。
手稿の後半には、英語とフランス語で書かれた手紙の下書きも残されていた。欧米のフェミニスト作家たちとの交流を示す証拠だった。
「まさか園井は、国際的な女性解放運動とつながっていたの?」
さらに調べると、手稿には不思議な夢の描写が繰り返し登場した。蝶が檻から逃れようともがく場面が何度も出てくる。精神分析の観点から見れば、明らかに抑圧からの解放を象徴していた。
私は園井の足取りを追った。戦後の混乱期に姿を消したとされていたが、実は密かにパリへ渡っていたことが、デジタル化された入国記録から判明した。
しかし、その先の人生は依然として謎に包まれている。ただ一つ確かなのは、この手稿が単なる小説ではなく、時代に抗って生きた一人の女性の魂の記録だということだ。
「この物語は、まだ終わっていない」
私は園井千代の真実を世に問うための準備を始めた。蝶は、まだ飛び続けているのかもしれない。




