「君に触れられたなら」(純愛)
彼女に初めて出会ったのは、春の雨が降る日だった。
傘を持たずに走っていた俺の前に、ふわりと花の香りが漂う。振り向くと、白いワンピースを着た女の子が立っていた。細い指が俺の袖をそっとつかんでいる。
「あなた、濡れちゃうよ」
その瞬間、雨が消えた。
傘なんてなかったのに、俺たちの周囲だけが、不思議なことに乾いていた。
彼女は微笑みながら、俺の手を握った。
「ねえ、好きって言ったら、信じてくれる?」
胸が高鳴った。見ず知らずの少女の言葉なのに、どうしようもなく惹かれる。
「……うん、信じる」
「じゃあ、また明日ね」
彼女は軽やかに踵を返し、雨の中へ消えた。
俺の心だけが、まるで初夏の太陽みたいに燃えていた。
***
次の日も、その次の日も、彼女は現れた。
彼女は俺に触れるたび、世界の色を変えた。
夏の日差しの下では、彼女の指先が俺の頬をかすめるだけで、蝉の声が遠ざかった。
秋の風の中では、彼女の吐息が耳元にかかると、木々が黄金色に輝いた。
冬の夜には、彼女の唇が俺の手に触れると、冷えた指先が温もりに包まれた。
俺は、彼女に触れられるたび、恋に落ちていた。
「ねえ、好きって言って?」
彼女はいつもそう言う。だから俺は、迷わず答えた。
「好きだよ」
そのたびに、彼女は嬉しそうに微笑んで、「うん、知ってた」と言った。
***
ある日、俺はふと気づいた。
彼女は、雨の中では濡れず、夏の暑さにも汗をかかず、冬の寒さにも震えない。
食事をしているところを見たことも、水を飲むところも見たことがない。
そう、まるで――
「……君は、何者なの?」
彼女は少し寂しそうに笑った。
「わたしはね、"あなたの恋そのもの" なんだよ」
俺は言葉を失った。
彼女が、俺の恋?
「あなたが初めて人を好きになった時から、ずっとここにいるの」
彼女は俺の頬をそっと撫でた。
「あなたが私を求める限り、わたしはここにいる。でも――」
彼女の瞳が揺れる。
「いつか本当の恋をしたら、わたしはいなくなる」
俺の心臓が締めつけられる。
「嫌だ……!」
「大丈夫。あなたの中に、ずっといるから」
彼女は微笑んだ。
「だから――最後に、もう一度だけ」
俺は涙をこぼしながら、彼女の両手を握りしめた。
「好きだよ」
彼女の身体が光に包まれる。
「うん……知ってたよ」
彼女の声が、春風に溶けていった。
***
春の雨が降る日、俺は街を歩いていた。
ふと、前を見上げると、向こうから女の子が歩いてくる。
傘を持たずに走る俺に気づいた彼女は、少し驚いたような顔をして、微笑んだ。
「あなた、濡れちゃうよ」
あの時と同じ言葉。
でも違うのは――
今度こそ、俺は、彼女に触れられる。