「名前のない街」(ホラー)
その街には、名前がなかった。
ただ、訪れた者は誰もが「ここに来たことがある」と感じる。
道はどこまでも続き、建物は無機質で、空には月がいくつも浮かんでいる。
「おや、見かけない顔ですね」
背後から声がした。振り向くと、スーツ姿の男が立っていた。
「ここは……どこなんだ?」
「あなたが来るべき場所ですよ」
「どういう意味だ?」
「みなそう言うんです。ですが、しばらくすれば納得しますよ」
男は笑い、歩き出した。
この街には、住人がいる。だが、彼らの顔はぼやけていて、誰一人として明確な特徴を持たない。
「あなたもそのうち、ぼくらのようになります」
「ぼくらのように?」
「名前をなくし、記憶をなくし、ただ、この街に属するのです」
何かがおかしい。
「待て、俺はここに来た覚えがない!」
「では、なぜあなたはここにいるんです?」
言葉が詰まる。
なぜ自分はここにいる?
なぜ、この街が懐かしい?
なぜ、自分の名前を思い出せない?
「……おかしい」
「ようやく気づきましたね」
スーツの男がにっこりと笑う。
「あなたはもう、とっくに"ここ"にいたんです」
「そんなはずは——」
だが、その瞬間、視界が揺らいだ。
街の建物が崩れ、月が落ち、道が歪む。
そして、自分の腕が透けている。
スーツの男が囁く。
「この街は、"忘れられた者"の行きつく場所。あなたも、もう……」
男の言葉が、聞こえなくなる。
目の前に、新しい訪問者が立っていた。
「おや、見かけない顔ですね」
その言葉を口にしたのは、スーツ姿の自分だった。