第6話 この家は一人で持て余すくらいには広いし
眠りの中、俺は夢を見た。
俺はどこかの家で年下の女の子とゲームをしていた。当時人気だった対戦系のゲームだ。場所も、自分の家じゃない。けど見覚えがある。どこだ? 彼女の顔も出てこない。既視感だけを強く覚える。
景色が変わる。どこかの祭りの会場か何かで、女の子に見上げられている。
『三十歳になってもお兄さんが一人だったら、私がお兄さんと結婚するよ』
そういえば。昔、こんなことがあったような――。
するとなぜか急に視界がぐにゃぐにゃ揺れ始めた。しかし体は張り付いたように動かない。意味がわからん。なんだこれはと思った。
しばらく動く視界に翻弄されて、もしかしてこれは夢なのではないかと思った瞬間、はっと目が覚めた。
見慣れた天井があった。うちの寝室だ。見下ろすと、布団がぐちゃぐちゃになって俺に巻き付いていた。
「……夢か」
何か変な夢を見た。母さんが亡くなった頃の記憶だろうか。あの頃のことはあんまり覚えていない。
……けれど、一つ思い出した。
そういえばあの頃、俺に絡んでくる女の子がいた気がする。
たぶん十年前くらいだ。もう記憶はぼんやりとしてきているけど、愛想の悪い俺なんかを慕ってくれる近所の子がいたのだ。
(三十歳……あと四年か)
思い出した可愛らしい台詞に苦笑する。もちろん期待する気は全く無い。向こうも忘れているだろう。
年を重ねて冷静になれば、俺のような独り身の寂しいサラリーマンなんて選ばない。
そんな昔の記憶を懐かしみながらリビングに出て行く。
部屋の隅に布団が三つ折りに畳まれて置いてあった。
夕月はいない。
「帰ったか……」
周囲には物音もしないし、人の気配もない。流石に帰ったようだ。
そう思うと急に家の中の静けさが増したような気もしてくる。
(いや、元通りになっただけだ)
この二日、夕月には世話になった。看病して食事も作ってもらって、ありがたい限りだ。でも夕月にだって学生生活がある。学生時代は貴重だ。俺なんかに構っている場合ではない。せいぜいたまに会うくらいがちょうどいいだろう。
テーブルを見ると、ラップに包まれた食事と書き置きがあるのに気づいた。
『あたためて食べてください』
「……ありがとうございます」
この場にいない夕月に向けて頭を下げた。
もう昼時だが、温め直してテーブルに並べ、両手を合わせる。
「いただきます」
昨日の具材で、今日は鮭を混ぜて味付けが醤油ベースになった炒め物だった。とても美味しい。夕月の料理はこれで食べ収めかと思うと残念な気がしてくる。
ゆっくりご飯を食べて食器を洗う。
なぜかいつもよりもぼんやりとしてしまう。
今日は何をしよう。久しぶりにゲームをするのもいいかもしれない。
そんな風に考え始めた時、寝室で何か鳴っている音が聞こえた。ああそうだ、スマホを置いてきていた。
「――はい、もしもし。雪子さん?」
義理の母である雪子さんから電話がかかってきていた。珍しいことだ。
『ああ、やっと出た。作馬くん。今日は家にいるかしら?』
「え、はい。いますけど」
『良かったわぁ。じゃあ、すぐにおうちに向かうから、家で待っててくれる?』
「……ん? はい、わかりました」
『よろしくね。それじゃあまた後で』
通話が切れた。少しの間、怪訝に思ってスマホの画面を見つめてしまう。
……一体、何の用だろう。
◇
雪子さんはちょうど正午ごろにやってきた。
「こんにちはぁお邪魔するわね。あら作馬くん、ずいぶんやつれたんじゃない? ご飯食べてる? って食べてないんだっけ。ちゃんと食べなきゃだめよ? うちからお米とかもっと送ろうか?」
雪子さんは、二年前に父さんと再婚した女性だ。
夕月の実の母であり、俺の義理の母である。
個人的には……ちょっとだけ苦手な人だ。
「……や、今ある分で足りてるんで……」
相変わらずパワーのある人で、口数が他の人の倍くらい多い。
見た目は夕月になんとなく似ているけど、雰囲気はだいぶ明るい。明るすぎるくらいだ。常に微笑みを讃えていて、優し気な雰囲気である。すごい喋るけど。
苦手なのはもう性格的な問題だ。これだけ毎日喋られるとちょっと大変そうだなぁ、というくらい。
そして――雪子さんの後ろに、ここ二日でずいぶんと見慣れた顔がいた。
「……夕月も来たのか?」
「……なに。悪いの?」
「いや。全然。悪くない」
じろりとした目を向けられてしまった。悪くはないがびっくりはした。もうしばらく会わないものと思っていたから、少し反応がぎこちなくなってしまう。
「仲良しでいいわねぇ」
雪子さんにそう笑われて、二人して微妙な顔をした。仲良しかどうかは諸説ある。
「……ひとまず、中にどうぞ。何か飲み物出しましょうか? ……と言ってもあんま物はないんですけど」
とりあえず中に入ってもらう。夕月はなぜかスーツケースを持っていて、玄関の脇に置いた。……これからどこかに遠出するんだろうか?
「いえいえお構いなく。少し話したらすぐに帰るから」
「話?」
「ええ。作馬くんに少しだけお願いがあって」
座るわね、と言いながらテーブルの椅子を引いて腰を下ろした。俺もその前に腰掛ける。雪子さんの隣には夕月が座った。
話とは一体なんだろう。
雪子さんが家に来るのはだいぶ久しぶりだ。引っ越した時以来だから、もうほとんど三年ぶりになる。
そうまでして話すべきことがあるんだろうか。
「単刀直入に言うと、ここに夕月を寝泊まりさせてほしいの」
「……え?」
さらりと言われて頭が真っ白になった。
思わず夕月に目を向けると、驚いた様子もなく髪の先を指でいじっている。
(な、なんか言ってくれよ)
そう思うが、ちょっと声はまだかけづらい仲だ。なぜか雪子さんが楽しそうに笑みを零す。
……ひとまず、落ち着こう。
「な、なぜでしょうか」
「うちのお母さん……つまり、夕月のお祖母ちゃんにあたる人なんだけどね。今ちょうど重めの病気になっちゃって」
「病気」
そうなの、と雪子さんの眉尻が下がる。
「だから私も看病に実家の方に一度帰ろうと思うのね。そうすると家がしばらく空いちゃうでしょ。その間夕月は学校があるから連れていけないじゃない? だから作馬くんの家を貸してもらえればと思って」
「父さんは?」
「啓介さんはね、実家からも人手がいるから来てほしいって言われちゃったのよ。お休みも取ってくれたみたいだから、一緒に連れて行くわ」
ずいぶん強引な実家だな、と思う。
そんな俺の顔色を察したのか、雪子さんが困ったような顔をした。
「これはあまり大きな声では言えないけど……啓介さんと結婚する前にいろいろあったから心配されてるのよ」
なるほどと思って頷いた。俺は事情をほとんど知らないが、雪子さんは前の夫とは離婚しているのだ。
実家の方も心配しているから、強引にでも今の旦那……つまり父さんの面を拝んでおきたいのかもしれない。
「理由はこんなところ。お金ならもちろん出すけど、本当に無理だと思ったら夕月には一人でいてもらうわ。でも、女の子が一人なんて心配でしょ? 作馬くんがいてくれれば安心なんだけど。……どうかしら、作馬くん?」
回答を求められてたじろぐ。
けど、どうかしらもこうかしらもない。
夕月がこの前うちに来ていなければまだ首を横に振れたかもしれなかった。でも今朝にかけて普通にうちで寝泊まりしてしまっている。至れり尽くせりの世話まで受けたのだ。問題なかっただろとか、あんなにお世話してもらったのに、と言われては終わりだ。
「……夕月は、平気なのか? うちで」
「別に。昨日も普通に寝れたし」
呻くようにして目を向けると、相変わらずの素っ気ない態度で頷かれる。
視線を戻すと、満面の笑みの雪子さんと目が合った。
いいかしら? と目が言っている。
……逃げ道などない。
「わ、わかりました」
頷くと、雪子さんがほっと息を吐いて手を合わせた。
「よかったわぁ。夕月も心配だったけど、作馬くんも心配だったのよ。夕月がいれば昨日みたいに作馬くんが倒れた時にも安心よねぇ」
「……俺もう早々倒れないですよ。薬も買ったし」
「だめよぉ普段からちゃんとしないと! お仕事が大変でもある程度しっかりしたご飯も食べなきゃ」
「兄さんのご飯はしばらく私作るから。……倒れられたら困るし」
「あら夕月がご飯作るんだ、いいわねぇ」
「……そうだお母さん、あれ作りたいんだけどレシピ教えてくれない? なんかたまに出てくるハンバーグみたいなのでさ――」
俺を置いて、二人で料理の話を始めてしまった。
料理の話は何もわからない。食えれば何でもいいタイプなのだ。……それでも夕月の料理は美味かったけど。
家主を放って続く会話から意識を外して、家の様相をぼんやり眺める。
一人暮らしには明らかに広い家。
ここでこれから、夕月と一緒に暮らすらしい。
関係ゼロだったはずの義妹と。
何がどうなっているのか不明だ。
不明だが、今まで通りに行かないだろうことだけは確かだった。
「――兄さん、聞いてる?」
「え?」
いきなり声をかけられて振り向く。夕月が眉を寄せていた。
「私、荷物いろいろ持ってきたんだけどまだ必要なものがいくつかあって。それで、足んない物は買い物したいんだけど」
「あ、ああ。行ってくれば」
「……兄さんも行くんだけど」
え、と言ったら呆れた顔をされた。この二日だけでもよく見た表情だ。
雪子さんだけが楽しそうに笑っていた。
「足んないのは私のだけじゃなくて兄さんのもあるから。食材とか必要でしょ。あと日用品。キッチンペーパーくらい置いてよ」
「そ、そうですね……」
なんか、おかんみたいだな。
体を縮める俺の横で、夕月が溜息を吐く。そして、ふっとわずかに笑った。
「とりあえずこんな感じで。よろしくね、兄さん」
こうして、俺と義妹の二人暮らしが始まってしまった。