第4話 家に誰かがいてくれること
翌朝。
元気になった体でオフィスへ向かうと、隣席の奴が椅子を引いて見上げてきた。
「よー作馬、おはよう。風邪治ったか」
「まあ、なんとか」
同期であり、同僚の桐村修一という男だ。俺より数倍愛想が良く、見てくれも良い。子供のころから長いことサッカーに打ち込んでいたらしく、印象はさっぱりとして爽やかなタイプだ。俺とは正反対である。
「一日で治って良かったなあ。てかもっと早くメッセ返せよ。やばい病気かと思ったじゃん」
「病人なんだからしょうがないだろ」
実際は思わぬ来客のせいでスマホを見るのを忘れていたというのもあるが。
「飴屋ちゃんも心配してたぞ」
「ああ。メッセージは来たな」
俺は会社でも愛想が悪くて、あまり喋る相手はいない。好んで話しかけてくるのは桐村と、あとは俺が担当になっている後輩の飴屋くらいだ。今日はたしか研修があるとかで席にはいない。
荷物を置いて腰を下ろすと、桐村が心配そうに俺の顔色を窺っていた。
「てかお前、やっぱ食生活終わりすぎなんだって。飯ちゃんと食えよ? 知らないかもしんないけど、一本で満足するバーじゃ体は満足しないんだぞ」
「知ってるよ」
心配されるのが若干むずがゆく、素っ気ない声になってしまう。
桐村は気にした風もなく、歯を見せて明るく笑った。
「よし。今日は一緒に昼食いに行こうぜ。美味い店を教えてやる」
「……わかった」
「えっ」
頷いたらなぜか驚かれた。
硬直してる桐村に向かって眉根を寄せる。
「……なんだよその顔は。お前が誘ったんだろ」
「いやいや、作馬って今まで誘っても一回も来なかったじゃん」
「じゃあ行かないでいいか?」
「ま、待て! 行くに決まってるだろ! なんか希望とかあるか?」
「……健康に良さそうなやつ?」
「なんだそりゃ。微妙に決めづらい注文だな。……定食とかでいいか?」
「ああ、大丈夫」
どこにするかなと調べ出す桐村を横目に、自席のパソコンを起動する。
いつも昼食は階下のコンビニで栄養食品みたいな物を買って、一人で適当に済ませていた。味はどうでもよく、腹にたまりさえすればいい。誰かとご飯を食べに行くのもめんどくさい。
でもそういう考えではたぶん、夕月にまた眉をひそめられてしまう。
スーパーやコンビニ以外に、ある程度普通の店も知っておくべきだ。桐村は聞いてもないのによく色んな店の話をしていたから、この辺の店にはどうせ詳しい。
「作馬も風邪になってようやく健康に目覚めたか? 今度一緒にフットサルとかどうだ」
「それは遠慮しておく」
「なんでだよ」
「運動なんてしたら逆に体調悪くなるだろ」
「……お前、そんなんだから風邪引くんじゃないの?」
それには答えず、俺は溜まっている業務に意識を向けた。
◇
仕事が終わる。時刻は二十一時を回っていた。病み上がりの体にも容赦なく残業は襲ってくる。まぁ体調はもう平気だし、またいつも通りの日常に戻っただけだ。問題ない。
しかし、残業中にスマホを見損ねてしまった事に気づいて硬直した。
『いつ帰るの?』
一通だけ。夕月からメッセージが入っている。
「……やらかした」
そういえば今日、家に来ると言っていたのを忘れていた。
桐村が疲れの浮かぶ顔で見上げてくる。
「なんだ、どうしたよ作馬。何やらかしたん?」
「……いや……とりあえず帰る」
「え? おお……じゃあな。作馬が焦ってるの珍しいな……」
桐村が何か言っていたが気にしている暇はない。早歩きでオフィスを出て駅へ向かい、道中で夕月に返信する。
『ごめん』『今から帰る。あと三十分くらい』
それから電車でしばらく待ったが、返信は無い。
(……流石にもう帰ったか)
高校生にこの時間は遅すぎる。帰ったか、というか、帰るべきだ。そこまで俺のことで無駄に時間を使うべきじゃない。高校生のために有意義なことはもっと他にあるはずなんだ。
なんとなく変な焦燥と共に早足で歩いて、帰って玄関のドアを開けた。
するとなぜか、リビングに明かりが灯っている。
「あ……おかえり、兄さん」
ソファに夕月が座っていた。部屋着のようなシンプルなジャージ姿で、くあ、と抑えた口元から欠伸を漏らしていた。ああ。眠っていたから返信が無かったのか。というか、それよりも、
「……帰ってなかったのか?」
「え……帰んないよ。面倒見るって言ったじゃん」
「雪子さんと父さんは……」
「ちゃんと連絡してるから平気。兄さんのところにいるからって」
夕月がふーと息を吐き、立ち上がって首を傾げた。
「ご飯用意してるけど、食べる? 温めるのにちょっと時間かかるから、お風呂とか入っててもいいけど」
「……じゃあ、そうする」
「了解。じゃあご飯あっためとく。ゆっくり入ってきていいよ」
それには曖昧な返事をして、荷物を置いてから浴室へ向かった。
廊下を歩いている最中、今朝の段階では床に散らばっていた色々な物が片付けられていることに気づいた。夕月が掃除をしてくれたらしい。
風呂も沸いていた。いつもはだいたいシャワーで済ませていたから、湯舟に浸かるのはかなり久しぶりだった。
浴槽にもたれ脱力して、水面から立ち上っていく湯気を眺める。
(……なんか、変な気分だな)
やっぱり夕月のことは不思議だった。俺を嫌ってるんじゃないのか。そういう気持ちは今でもある。でもさっき玄関のドアを開けた時に、明かりが点いていて、胸の内が少し軽くなった。これは、安心だろうか。帰った時に誰かがいてくれることで、こんな気持ちになるなんて。
俺は寂しかったんだろうか?
濡れた前髪をかきあげて、しばらくぼうっと目を閉じた。