第3話 借りは返すべき
仕事が忙しければもちろん残業もするし、その分は残業代も出る。
だから俺は、お金もそこそこ持っている。
でも俺は一人が好きなタイプだ。毎日はたいてい仕事、食事、睡眠だけで消費されている。打ち込む趣味もない。強いて言えばゲームは好きだが、仕事で忙しくなってからはあまり手を付けていなかった。
つまりお金の使い道が特にない。
「仕送りは……いや……普通じゃないか? ……一般的な額だろ」
「目、逸らさないでくれる? あと嘘も止めて」
夕月の声が低くなって身を縮めた。大人なのに、女子高生に圧をかけられている。
たしかに、言われた通り俺は実家へ仕送りをそこそこ送っていた。両親がこんなに受け取れないと一回断るくらいの額だ。それを貰ってもらう時の言い訳に「多い分は夕月のために使ってほしい」とも言った。
これは、申し訳なさの表れでもある。
新しく家族になった二人と……妹に対して、俺は一人暮らしをしてそこから離れることを選んだ。
わざわざ戻るのも変だとは思ったし、俺のような愛想の悪い人間がいたって、かえって人間関係の邪魔になるかもしれない。だったら、お金だけ渡して自由に使ってもらった方がいい。
そのおかげかどうかは知らないが、我が家の家庭環境は円満だと聞く。
(どうせ俺は金なんて使わないし)
なら使ってくれる身近な人に渡したい。
ただそれだけの話なんだから、何かを気にする必要なんてない。
「……本当に余裕があるから送ってるだけだよ」
夕月が疑うような目で見てくる。
「本当に?」
「……大人は残業が多いと給料がたくさんもらえるんだ」
「残業って」
かすかに眉をひそめられる。
そして、おもむろに寝室を見渡した。寝室もリビングと同じく、床に物が散らばっている。空きっぱなしのクローゼットの前に放り出された服とか。なんかの紙とか。その他。色々。
「それ普通に生活できてるって言えるの? こんな部屋汚いのに」
「まぁ生きてはいけるよ。一応」
「ご飯とか食べてるの?」
「帰る時にスーパーが開いてたらそこで買うし、あとコンビニでも色々あるし。腹満たすくらいならどこでもできる」
「……それ、健康に悪い」
夕月が刺々しい声音で眉をひそめた。たしかに世間的イメージにある健康で文化的な生活をしていない自覚はある。でも仕方ないのだ。生きていくだけのため以上の行動をあえてやる気力は無いし。
「兄さん、明日は仕事行くの?」
「そのつもりだけど」
体調は今朝よりだいぶいい。この調子なら明日は出れるだろう。仕事も溜まっているし、出ないとまた次の日の俺が困ってしまう。
夕月が深々と溜息を吐く。
そして、ぽつりと零すように言った。
「じゃあ私、明日も来るから」
「え?」
耳を疑うようなセリフに、呆けた声が出た。
「……変? 私たち一応家族でしょ? 兄さん一人の面倒くらい見れるし」
夕月が素っ気ない声で言う。たしかに家族ではある。それはそうだ。でも俺たちは兄妹でありながらほとんど他人だ。交わした会話の数はたぶん今日で一番が更新されたくらいだ。そんな薄い関係性なのに。
「……兄さん、どうせ彼女とかいないよね。ここに来る女の人とかいる?」
「それはいないけど……」
「じゃ、平気か」
「夕月の学校は?」
「終わってからで間に合うじゃん。兄さんどうせ帰るの遅いんでしょ?」
少し、頭の中がふらっとした。たぶん熱のせいではない。
「兄さん、さ」
答える言葉に迷っていると、夕月がぐっと詰め寄ってくる。
「私は、兄さんに借りがあるの。お金って大事な物でしょ。それを受け取ってるんだから、何かで返さないといけないの。だから面倒を見れるのはちょうどいい」
そして青みがかった瞳で見上げてくる。
「……これでも受け入れられない?」
最後の言葉は窺うような不安げな声だった。
それを聞いてしまうともう、断ることはできそうにない。
「……雪子さんと、父さんに聞いてからな」
苦し紛れにそう答えたら、夕月が満足げに薄く笑った。
◇
夕月は家に帰っていった。食器を洗って、洗濯機の乾燥も回してくれた。
俺はひとまず薬を飲んで寝た。
昼の出来事はどうも現実のようには思えない。
本当に夕月は来たんだろうか。また家に来るんだろうか。あれは白昼夢なのではないか。
でも夢ではない証拠に、目が覚めると家族のLINEグループが動いていた。
『兄さんは無事でした。でも部屋汚いし、食生活ひどすぎ』
『だから明日も様子を見に行くことにします』
両親は何かのキャラクターが微笑みながらOKと言ってるスタンプを押していた。
いいのか、それで。
ずいぶん軽い調子で夕月が来ることが決まってしまった。
(マジか……)
頭を抱えてソファに腰を下ろした。家族LINEに何か言おうか悩むが、どう言っても今の状況を打開できる気はしない。
ひとまず現実逃避にグループの画面を離れたら、義理の母である雪子さんからもメッセージが来ていることに気づいた。
『こんばんは作馬くん、体調はよくなったかしら? 夕月はうまく看病できたかな』
『夕月ったら、作馬くんのLINE見てすごく焦って出ていったのよ』
……焦って?
それは聞いていた話とちょっと違う。夕月はたしか、雪子さんが寝ていたから仕方なく出てきた。そういうニュアンスで言っていたはずだ。
そうじゃなかったのか。でも、どうして。
『たぶん、作馬くんと仲直りしたいんだと思うの。また夕月と仲良くしてあげてね』
「仲直りって……」
子どもの喧嘩の時しか聞かない言葉で微妙な顔になった。
別に俺たちは喧嘩をしていたわけじゃないのに。
(それに――『また』ってなんだ)
俺と夕月が仲良くしてた時期なんてないはずだ。
これは雪子さんの勘違いだろうか。
そして父からもメッセージが、一言だけ。
『人間嫌いは程々にな?』
(……別にそういうわけでは)
返信はせず、ソファに倒れて横になった。
別に人間が嫌いなわけじゃない。人と関わるのが面倒なだけだ。
ぽちぽち他に届いているメッセージにも返信する。同期と後輩だ。人間嫌いと揶揄される俺にも話し相手くらいはいるのだ。
額に手を当てると、今朝あったような熱はもう引いていた。体の倦怠感も薄れていて、咳も出ない。明日は仕事も出れるだろう。
これはどう考えても夕月の看病のおかげだ。本当に世話になった。
加えて、明日も学校終わりにわざわざうちに来てくれるらしい。
(俺のことは気にしなくてもいいのに)
夕月と仲直りすることに異論はない。嫌われているよりは、嫌われてない方がいいに決まっている。でも家に夕月がいるのをイメージすると、どうにも変な感じがする。
別に、夕月が嫌いなわけじゃない。
ただしばらく一人でいたから、家に誰かがいると違和感があるのだ。
近くに他人がいると落ち着けない気がする。
夕月も俺なんかに関わってる時間は無いはずなんだ。
(……まぁ、でも明日だけか)
一日くらい夕月が来ても、何か変わることは特にないだろう。今日は軽く何かを食べて寝よう。そう思って体を起こす。
キッチン上の戸棚からインスタントのカップ麺を手に取ろうとしたところで、夕月の顔を思い出してぴたりと止めた。
……健康に悪い、か。
結局、夕月が買ってきてくれた物から、お粥と味噌汁と納豆を用意して食べた。
これがまだマシな食事なあたり、俺が健康な生活に至るには多大なる苦労が必要そうだ。