第11話 社内の空気とある遭遇
翌朝。肩をぐらぐらと揺らされて目を覚ました。
ぼやけた視界の中、整った顔が上から覗き込んでくる。
「兄さん……アラーム鳴ってるよ」
「……ぇ?」
「アラーム。うるさい。消していい?」
「あー……うん」
朦朧とする頭で頷く。ぴぴぴぴ、と鳴っていた電子音が止んだ。
起き上がって窓の方をぼうっと眺めて、朝だな、と当たり前のことを思う。
目の前でぼそっとした呟きが聞こえる。
「……兄さんってこんな朝弱かったっけ。昨日の疲れが残ってる?」
そう言われて、ようやく意識がはっきりしてきた。
制服姿でエプロンを付けた夕月が目の前で腰に手を当て、眉間に皺を寄せていた。
慌てて居住まいを正す。
「朝ごはん。できてるけど」
「あ、はい。起きます」
そうだった。うちには夕月がいるのだ。……というのを昨日も思った気がする。
夕月はまったく、とでも言うように溜息を吐いていた。流石に慣れないといけない。これから仕事がある日も、無い日も、夕月がいるのだ。
欠伸をしながらベッドを降りたところで、ふいに夕月が口を開いた。
「あ……言い忘れてた」
そう言われてちょっとだけ身構える。
なんだろう。何か怒られるようなことをしただろうか。
「おはよ。兄さん」
でも言われたのはそれだけで、俺は脱力してうな垂れた。
「……ああ、おはよう……」
「なに? その元気ない顔」
夕月に不審そうな目で見られる。俺は一体何に身構えていたんだ。
やっぱり、まだ夕月に慣れるには時間がかかるのかもしれない。
◇
出社して、いつも通りに仕事を始める。
ややこしい案件は先週で終わったから、今週からは残業もマシになりそうだ。社内の空気も緩んでいた。先日までの切羽詰まった雰囲気から解放され、周囲の表情も柔らかい。
「はぁ……」
そんな中で、俺だけが疲労を覚えながら作業をしていた。
足がぴりぴりして痛い。ただの筋肉痛だが、さっきから微妙に気になる。集中できない。
桐村が隣の席から声をかけてきた。
「作馬、さっきからなんでそんな顔してんだよ。もう残業五時間目みたいじゃん」
「……ただの筋肉痛だよ」
言いながら自分の体の弱さに呆れる。俺はただの筋肉痛でそんな顔をしていたのか。日頃の運動不足を見直さないといけない。
桐村は面白そうに眉を上げた。
「へえ、運動でもしたの?」
「出かけただけだ」
「出不精が作馬が出かけるなんて珍しいな、どこ行ったんだ」
「……ドリームランド」
「え? ドリームランド? 嘘だろ?」
桐村はわざわざ両手を上げてまで驚愕を表現してきた。なんだこの反応は。俺がどこに行こうと勝手だろうが。
「ど、どどどドリームランド!?」
そこで近くからさらに声があがった。この声は……。
「せ、せ、先輩ドリームランド行ったんですか!? なんで!? 誰と!?」
「飴屋……声を押さえろ……」
ちょうど傍を通っていた奴が耳元で高い声を上げてくる。
飴屋茉莉。去年入社してから、俺が仕事を教えていた後輩だ。
「でも気になりますよ! 先輩がドリームランドとか解釈違いすぎるんですけど!」
「それは解釈の方が間違ってる」
飴屋は非常に明るいタイプの後輩だった。よく言えば元気。悪く言えばちょっと抜けている。仕事の覚えは悪くないが、大事なところで一個何か忘れてしまうようなタイプだ。そこも愛嬌があるんだとは思うが。
今日も勢い余ってブラウンの髪が揺れている。この元気さは一体どこから湧いてくるんだ。
しかも飴屋だけでも大変なのに、桐村までそれに乗っかってくる。
「いやぁ作馬。飴屋ちゃんの言う通りお前がドリームランドなんて天変地異だろ?」
「俺は災害か?」
桐村に眉をひそめたところで、飴屋がなぜか若干声を抑えて聞いてくる。
「先輩、一人で行ったんですか?」
「え? ……いや、一人じゃないけど」
なぜか言いづらくて微妙な返事をしてしまった。
すると飴屋に愕然と目を見開かれた。
「……ま、まさか、か、か、彼女!?」
「えっ? 作馬もついに彼女できた?」
桐村もにまにま笑いながら言ってきた。飴屋は早とちりっぽいが、こいつは面白がって乗っかっているだけだ。こういう所、たちが悪い。もう言ってしまった方が面倒がないか。
「飛躍しすぎだ。……ただの妹だよ」
義理の、と言うとめんどくさそうなのでぼかした。
飴屋がぱちぱち目を瞬かせる。
「な、なるほどぉ……。先輩って妹さんいたんですね」
「初めて聞いたなぁ。作馬って自分の話全然しねーし」
「俺の家族事情なんてどうでもいいだろ」
「あ。もしかして、この前急いで帰ったのもそれか?」
「…………」
「うわ、すげー嫌そうな顔されてる」
思わず眉が寄ってしまって、桐村に笑われた。本当にこいつは無駄に鋭い。
飴屋はなぜかずっと複雑そうな顔をしている。
「先輩の妹さん……妹さんですか……急いで帰るってことは、一緒に住んでるってことですよね」
「……そうだけど」
俺がうなずくと桐村が目を丸くした。
「へえ、作馬って一人暮らしじゃなかった? 今だけ一緒にいるみたいな感じ?」
「どちらも合ってるが、お前に一人暮らしだって言った事ないだろ」
「いやだってお前、目の死に方が実家住まいじゃなかったからな」
「わ、私も、先輩は家族とは離れたがるタイプだと思ってました!」
桐村の適当な言い草に飴屋も手を上げて賛同していた。
こいつらは俺のことを一体何だと思ってるんだ。全く間違ってないのがさらに癪に障る。
「作馬お兄ちゃん、妹ちゃんの話聞きたいなあ」
「お兄ちゃんと呼ぶな気持ち悪い。……というかそろそろ仕事やるぞ。さっきから周りに見られててすげー居心地が悪い」
あ、と二人が周囲を見渡す。
こっちに意識を向けていた職場の面々が不自然なほど一斉に仕事を再開しだした。
二人は顔を見合わせて一度頷く。
「……まあ。また今度聞くか」
「……ですね! 先輩。今度の飲み会、逃げないでくださいよ!」
「逃げてるつもりはない」
去っていく飴屋に言ったが、声は届いてなさそうだった。桐村が笑っている。
飲み会には何度か誘われていたが、全て断っていた。面倒だし、その場にいても空気を凍えさせるだけの存在になりかねない。
ふう、と切り替えるために息を吐いたら、今度は筋肉痛がまたぴりぴり気になってきた。
(……なんか今まで通りにいかないな)
夕月が来てから、なんだかどうにも調子が狂う。
◇
その日の残りは何事もなく過ごした。いつも通りに仕事に仕事に仕事だ。ただ、今日の分の作業はだいぶ早めに片付けられた。おかげで久々に定時上がりだ。
電車の窓からは、まだ日が落ち切っていない夕暮れの景色が見える。暗い時間に帰ってばかりいたからこんなことに違和感があった。
(連絡入れておかないと)
夕月はもう帰っているだろうか。いや、部活をやってるという話も聞いてないから、たぶんもう家にいるだろう。
「……え? 兄さん?」
「え?」
そんなことを思いながら最寄りの駅に着いたところで、なぜかばったり夕月と出会った。
「――え! もしかしてこの人が夕月先輩の言ってたおにーさんっすか!?」
……ちょうど、友人(?)らしき女の子といるタイミングで。