三二話 おやすみ
「……ごめん、俺が遅れたせいで」
「……優佑は、悪くない。…………私、怖くて……何も出来なかった」
「俺も何も出来なくてごめん……俺がちゃんとしてればもっと早く追い払えたのに」
昔のトラウマもあって余程怖かったのだろう。有栖は部屋に帰ってきても俺の腕を掴んだままで、ずっと俯いている。
そもそもちゃんと警戒していれば有栖を一人にするという状況にはならなかっただろう。
海では有栖に近づいてくる人も居なかったので、それで気が抜けて油断してしまった。……というのは言い訳にしかならない、何か起きてからでは遅いのだ。
「あー、寝るまでまだ時間あるけど、どうする?」
「……もうちょっとだけ、このまま……ダメ?」
「……分かった」
「ありがとう」
正直な事を言うと、いつもに比べて距離が近くなっている訳で、それに加えて今はお風呂上り、掴まれている左腕の方からはとてもいい香りがする。更には腕を掴んでるところに、その……柔らかな膨らみが当たっているのだ。
しかし有栖が明らかに怖くて怯えている時にそんな事を言うのは流石に憚られる。
結果として俺は心を無にして我慢するという選択肢を取らざるを得なかった。
「――明日の花火、楽しみ」
しばらくの間二人共無言でいたのだが、十分くらい経った頃だろうか、唐突に有栖がポツリと呟いた。
「大丈夫……なのか?」
「さっきみたいな人は怖い……でも優佑が横に居てくれるなら大丈夫。それに……こんな事で楽しい旅行を残念な思い出にしたくない」
どこか吹っ切れたような顔で有栖はそう言った。
「そっか――有栖がそう言ってくれるなら明日も楽しい思い出を作ろうか」
「ん、楽しみ」
「それじゃあ今日はまだちょっと早いけど明日のためにも寝るか?」
「そうする」
今は22時半といつもならまだ起きている時間だが、英一郎さんも寝てしまっているし俺達もこれからする事も特に無い。
今日は海でよく遊んで疲れも溜まっているだろうし、早く寝て損はない。
「っと、英一郎さんは部屋の端っこで寝てるから有栖が真ん中でもいいか?」
部屋はそこそこ広く、敷布団は3枚離して敷く事が出来ている。
いくら寝相が悪くても隣の布団に行ってしまう事も無い位には距離が離れているため、不慮の事故が起こる事も無いだろう。
「……おじいちゃん今日いびきうるさい」
「お酒相当飲んでたからなぁ……」
有栖がそう言うという事は、普段はうるさくなるほどいびきをかかないのだろう。しかし今日に限って少しうるさいと感じる程度にはいびきをかいてしまっている。
「私の布団、優佑の方に近づけちゃダメ?」
「――それは……」
「……無理にとは言わない、けど」
「…………分かった、こっちに近づけてもいいよ」
幸い俺は壁際なので壁の方を向いて寝ることにしよう。
寝返りだけは気を付けなくてはならないが……。
「じゃあおやすみ」
「ん、おやすみ」
……
…………
………………
(……いや、寝れない)
いつもより早い時間だからか、それとも横で有栖が寝ているからか、英一郎さんのいびきが少し聞えてくるせいか……とにかく俺は、先程おやすみと言ってから三十分近く経った今、全くと言っていいほど寝付けていなかった。
あの時直ぐに有栖の手を引いてあそこから逃げれば良かった……。
温泉に行くとき、そもそも有栖に鍵を渡して先に帰ってもらえば良かった……。など、寝れないのでそんな事ばかりを考えてしまい、余計に眠れない。
「……優佑、起きてる?」
なかなか寝付けず、そろそろ羊を数えようかと真面目に考えていた、横から控えめな声が聞こえてきた。
「起きてるけど、何かあったか?」
「……なかなか寝れないの」
「今日は色々面白い事があったからな、それで楽しすぎたから寝れないんじゃないか?」
「……ふふっ、そうかも」
俺が少し冗談交じりにそう言うと、有栖は先程よりも柔らかい声でそう答える。
「……優佑」
「ん?」
「……手、繋いでもいい?」
「そ、それはどうしてでしょうか?」
急にそんな事を言われて、謎に敬語になってしまう。
「…………ちょっとだけ、不安で……寝れない、かも?」
遠慮がちにそんな事を言われてしまっては断るのも気が引ける。
さらば俺の睡眠時間、頑張れ、明日の俺……。
「……これでいいか?」
左手を有栖の布団の方へと伸ばし、右手を掴んで優しく握る。
「ん、ありがとう」
有栖の手はひんやりとしていて、少し強く握ったら折れてしまいそうなほど細くて柔らかい。
そういえば手を繋ぐ事は何度かあったけど、こうして何もない時に繋ぐのは初めてなような気がする。
そう考えるとなんだか恥ずかしいような……
(手汗とか、大丈夫だよな?)
もしかして有栖はやっぱり嫌だったりしないだろうか。と怖くなって有栖の方を向くと、有栖はいつの間にか、すぅすぅと可愛らしい寝息を立てていた。
「……眠れたのなら良かった」
うなされている様子もなく、スヤスヤと眠っている有栖に一安心していると、それで俺の緊張の糸も切れたのかいつの間にか俺の意識も落ちていた。




