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翌日、彼女は会社に来なかった。
彼女は入社以来、公休以外で休みを取ったことがない。まして当日欠勤など彼女とは最も縁遠い言葉であっただけに、社内ではちょっとしたニュース扱いだった。
彼にとっては、不幸なことに。
「おい、カズ。高山さん、何かあったのか?」
————またか。
内心うんざりしながら振り返る。
「いえ、俺もよく知らないです。課長なら何か知ってると思いますけど……」
朝から何度このやり取りを繰り返したか分からない。十から先はもう数えるのをやめた。
「そっか。お前ならなんか知ってると思ったんだけど」
「いや、俺も別に彼女と特別仲良いって訳では無いので……」
「そうなん?昨日も一緒になんかやってたじゃん」
「課長に言われて契約書作成を手伝ってただけですよ」
そっかー、と興味を失った顔で去っていく同僚の後ろ姿を見ながら思わず嘆息が漏れる。
この時ばかりは、彼女の生き方に感謝するしかない。心当たりと言えば昨日のことしかない訳だが、誰にも弱味を見せようとしない彼女がそれを漏らすというのも考えにくかった。
そもそも彼女と言う人間は、その生き方ゆえに誰からも注目されることは無く、必然その評価というのも「仕事は出来るものの掴みどころはない人」と言うのが社内全体の認識だった。
その彼女が突然の欠勤である。当然何かあったと思うのが人間であり、そう思えば首を突っ込みたがるのもまた人間だ。
「……くそったれ」
知的探究心などともっともらしい言葉を付けて、際限なく他者を踏み荒らしていく生き物。それがお前達なのだと突きつけられているようで吐き気がした。同族嫌悪であると分かっているからこそ、余計に。
無言で席を立つ。時刻はちょうど昼時だった。
重い鉄扉を開けて外に出ると、ビル風が髪を揺らした。十月も半ばを過ぎると、屋上に吹く風は刺さるような冷たさになってくる。冬が近いのをそんなことで実感した。
タバコに火をつける。
煙に、吐き気が溶けていくような気がした。
「あー、カズー」
遠くのいわし雲を見るともなしに眺めていたら、背後から声をかけられた。
話し方だけで誰かわかるというのは、もはや才能だと思う。
「一本、貰ってもいい?」
「禁煙中だったんじゃないですか?」
「嫁さんにバレなきゃいんだよ」
ひっひっひ、と笑って課長はタバコを咥えた。
「あー…………肺が洗われるー……」
「言ってること完全にニコ中じゃないですか」
禁煙なんてしてないでしょ、と視線で訴えると、課長はまたひっひっひと笑った。
笑った反動で、少し咽る。
「ゴホッ……カズお前、結構重いの吸ってんなあー」
「まあ、一応。十ミリあるんで」
「へえー。入社した頃は俺の一ミリで涙目になってたお前がねえー」
「よく覚えてますね、そんな半年以上も前のこと」
「そっかー。もう半年も経ったのかー」タバコをふかしながら、「おっさんになると、日々の彩りってやつがなくなってなー。ついつい若い奴ばっかり気にしちまうんだよなー。年はとりたくねえもんだあ」
そう言って、大きく息を吸い込む。また少し咽ていた。
しばらく、タバコの燃える音だけが聞こえるような間があって、
「お前と高山さんさー、昨日なんかあったの?」
課長は静かな声でそう聞いた。
「いえ、特になにも。どうしてです?」
「いやー、高山さんさー、休みの連絡はくれたんだけど、なんでか理由は聞いてもよく分かんなくてさー」
————ああくそ、君ってやつは。
小さく嘆息する。
他人を恐れるが故に生真面目な彼女のことだ。辞書に嘘をつくという言葉はないに違いない。かと言って、自分の本性を知られている人間の前に堂々と出て行ける程の勇気もない。感情と理性の板挟みになってオーバーフローする姿は容易に想像出来た。
「……理由は俺もわかんないですね。体調不良とかじゃないんですか?」
「うーん。そうかなあー……」
「変に責任感じちゃってるから言えなかったんじゃないですか?彼女そういう所ありそうですし」
「お?分かったようなこと言うね?流石弁当組同士ってことかー」
課長の目が細められる。
———しまった。
そう気づいた時にはもう手遅れだった。
「それじゃあ、これもお願いしておこうかな」紙袋を渡される。「それ、僕らからのお見舞いー。あと、一緒に有給消化の手続き書類入ってるから。出社する時に持ってきてーって伝えといてー」
「いや、ちょ、課長!無理ですって!俺男ですよ!そもそも俺、高山さんの家とか知らないし!」
「その辺も大丈夫ー。袋の中に地図入れといたし。ちょうどお前と一緒の方角だからー」
「いや、だからそうじゃなくて!」
「えー、何お前。もしかして北西と北北西は方角違うとか言っちゃうー?細かすぎる男はモテないぞー」
「そういう問題でもなく!!」
必死に抵抗してみるが、「まあまあ、まあまあ」と課長はどこ吹く風だ。
「変に僕らが押しかけるより、気心知れてる同年代の方が彼女もいいでしょー。ていうかお前ら、付き合ってるんじゃないかって噂よ?」
「いやだから、気心も知れてないし付き合ってもいないんですって!それに俺が一人で行ったりして、もし問題でも起こしたら————」
「お前は無理矢理手を出したりするやつじゃないでしょ」
窘めるように、遮られた。
課長の目は、真っ直ぐに彼へ向けられていた。
「そもそもお前がその気だったら、機会なんて今までいくらでもあっただろうし?」
短くなったタバコを揉み消して、大きく背筋を伸ばす。
「まあ何があったかは知らんけどさ。自分でやった事は自分でけじめつけなきゃいけねえよ。それがいい事であれ悪いことであれ、な」
「……なんで、何かあったって分かるんスか」
「今日のお前の態度見てればわかるよー。何年中間管理職やってると思ってるの」
上司の顔色伺い続けて十二年よ?と苦笑する。
「とはいえ、僕の頼んだことが遠因になってる部分もありそうだし?」紙袋を指さして、「言い訳は用意しといたから。まあ存分に話しておいでよ」
期待してるよー、と言い残して課長は鉄扉の向こうへ歩いていく。
その後ろ姿を見送って、彼は大きく息を吐いた。
「……何を期待してるって言うんだか」
タバコを咥えようとして、もう火が消えていたことに気がつく。溜息をついて、灰皿へ捨てた。
「ったく、本当に」
————敵わないな、あの人には。
入社して半年と少し。今日も黒星が増えた。
白星はいつになったらつくのかね、と独りごちて彼は紙袋を持ち直した。
✱ ✱ ✱ ✱ ✱
「コーポ長屋……」
彼女の部屋は、本当に彼の住居のすぐ近くだった。恐らくニキロと離れていない。
こんな所に住んでいたなんて知らなかった。そんなことも知らないほど彼は彼女を知らなかった。
……いっそ何も知らないままで居られたら良かったのに。
「それにしても、長屋って……」
彼女が住むアパートは古びた木造の平屋で、まさしく長屋と呼ぶに相応しいものだった。ここの大家は子供に田中太郎とか名付けるタイプに違いない。そんなことを思って少し笑えた。
コンクリートの廊下を抜け、一〇三と書かれた扉の前で立ち止まる。インターホンはなかったので、扉を軽く叩いた。
「はーい?」
くぐもった声の後に、軽い足音が近づいてきてドアが開く。
覗き込むように姿を見せた彼女の顔が、彼を見た途端強ばった。
「————、なんで、」
いるんですか、と続いた言葉は掠れていた。
……扉を閉められなかっただけマシかな、これは。
「いや、課長に頼まれて見舞いに来たんだけど」紙袋を見せる。「同年代の方がいいだろうって」
気心知れた、という言葉はあえて隠す。
彼女にとって、それは皮肉にしかならないだろうから。
「…………どうして、私の家知ってるんですか」
「それも課長が教えてくれた。地図渡されて」
ほら、とA4の紙を差し出すと、彼女は摘むように受け取って、それが自分の住所であることを確認すると沈痛な表情で目を閉じた。
「それに関してはごめん。俺も止めたんだけど……」
聞かなくて、と続けようとして止めた。実際に来てしまった以上、何をどう言ったところで言い訳にしかならない。
「いえ、いいです。だいたい分かったので」
彼女は沈痛な面持ちのままそう言った。
「とりあえず、これ」紙袋を差し出す。「受け取ってやってよ。モノに罪はないからさ」
「ありがとう、ございます」
「一緒に有給届入ってるから。次出勤する時に書いて持ってきてってさ」
コクリ、と小さく頷く。
「会社のみんな、結構心配してたよ」
頷く。
「それと、昨日はごめん。君を傷つけるつもりで言ったんじゃないんだ」
頷く。
「それじゃあ、帰るよ。お大事に」
「…………どうして、普通にしてるんですか」
背を向けた所に声をかけられて、振り返る。
「どうしてって、なにが?」
「とぼけないでください!!」
叩きつけられた怒声は、かなきり音に近かった。
「あたしの全部を知っておいて!あたしの一番醜いところを土足で踏みにじっておいて!!どうして!!!!」
「ちょ、声が大きい!」
慌てて彼女を部屋に押し込み、後ろ手に扉を閉じる。
彼女は、彼から一歩離れた距離で腕を抱いて、
「どうして、そんなに普通でいられるんですか……」
絞り出すようにそう言った。
俯いた顔に、どんな表情を浮かべているのかは分からない。分からないから、彼は彼に分かることだけを口にする。
「そんなの簡単だ——俺も、君と同じだからだよ」
「————ふざけないでよ!!!!」
激昴は、一瞬だった。
「あなたみたいな人があたしと同じなわけない!!あなたみたいな誰とでも上手くやってきたような人にあたしが分かるわけない!!適当なことばっかり言わないでよ!!」
「嘘じゃない。俺だって——」
「嘘!だってあなたは上手くやっているじゃない!あたしみたいに浮いてないじゃない!!上司にも同僚にも頼りにされて!!あたしなんかとは何もかも違うじゃない!!」
「それは、」
「あたしみたいに誰にも頼りにされなくて!誰にも頼ることなんてできなくて!どこに居ても居場所なんて作れない!!そんな思いを抱いたことなんてないくせに!知ったような口を————!!」
ああもう、
いいから、俺の話を聞け!
彼女を壁に押し付け——唇をふさいだ。
彼女は一度大きく震えて、硬直したように動かなくなった。
数秒だったか。数分だったか。
正確な時間はわからない。それでも、体感的には長いキスになった。
彼女が充分落ち着いたと判断して、唇を離す。
どうして、と掠れた声で彼女は聞いた。
「君が話を聞かないのが悪い」
「…………。だからって、こんなこと出来るんですか」
「誰にでもできるわけじゃないさ」
そう言うと、彼女は俯いて黙り込んだ。
多分、話すタイミングは今しかない。
「————俺はね、昔、人を殺しかけたことがあるんだ」
ポツリ、と。零した声は、小さな部屋に染み渡った。
「仕方ない事だった。仕方ないことだったって、今なら言える。でも、その時はきっと誰にもそんなことは言えなかった」
彼がまだ小学生の頃の話だ。
遠足に行った遊園地で、通り魔のような男に襲われた。
「本当に、殺されると思ったよ。自分の何倍もあるような男が目の前で包丁振り上げててさ」
あの時の記憶は、正直薄い。
とにかく命にしがみつくことだけで精一杯だった。しがみついて、手繰り寄せて、抱き抱えて——気づけば、男は腹から血を流して倒れていた。
他人の血に塗れた両手と、ついさっきまで笑いあっていたクラスメイト達の顔だけが記憶に焼き付いている。
「そこから先は、だいたい想像できるだろ?」
現実は漫画のようにはいかない。例え相手が悪者だったとしても、倒した側が正義と称えられることなどない。向けられるのは称賛の目ではなく、恐怖と嫌悪だけだ。
「一応、正当防衛扱いになって捕まることはなかったけどさ。人間の本性なんて、その時に見飽きたよ」
醜さも、残酷さも。普通なら一生かかっても見ることはないであろう数の、地獄を見た。
クラスメイトにはもちろん、全生徒から先生に至るまで、彼と関わろうとはせず、広い校舎の中で彼の居場所などどこにもなかった。
自分の価値など、どこにもありはしないのだと、嫌になるほど突きつけられた。
「…………だったら、どうして」
口を開いた彼女の声は、湿っていた。
「どうして、あたしにその人たちと同じことしたの。そんな、」
醜さを突きつけるようなこと、と震える声で。
彼は、少し考えて、
「……あのさ、逆に聞きたいんだけど。醜いことってそんなに悪いの?」
「悪いに決まってるじゃない!」彼女は、信じられないものでも見たかのように目を見開いた。「あなただってそんな経験してるなら分かるでしょう!?」
「だからこそ、だよ」
続けた言葉に、彼女は今度こそ本当に理解不能な物を見たかのような表情を浮かべて絶句する。
心当たりのありすぎるその顔に思わず苦笑が漏れる。
「俺も昔は君と同じように思ってた」
中学進級を機に引っ越した後、彼はまさしく彼女のようだった。
他人は恐怖の対象であり、他人にとっての自分ばかりが気にかかる。そこに信頼や友情などと言う言葉の入る余地などなく、全てを嫌悪していた。
「人は醜い。多分この世界で一番醜悪なのは人間だ。それは変えようがない」
ただ、彼女と違ったのは、彼が一人で何もかも出来るほど器用ではなかったという点だけ。
他人に頼らず、他人からも頼られず、一人で立っていく強さが彼にはなかった。なくて良かったと、そう思う。
「だからこそ、人は醜さを隠すんだ」
醜いままでは生きることを許してはもらえないから。
醜いままでは関われないから。
醜いままでは誰にも助けてはもらえないから。
自己保身?大いに結構。偽善?世の中突き詰めれば全てが嘘だ。
生きていくために嘘をついて何が悪い。
「醜さを隠して覆って騙して——人は初めて人であれる」
だから、彼は醜いことを悪だとは思わない。
今ある自分は、醜さが形作ったと知っているから。
「————醜さから目を背けない人間は、きっと誰よりも綺麗だ」
彼女は、それを黙って聞いていた。
秒針の音だけが響いていた。
何度鳴ったのか数えるのも億劫になるほどの間を置いて、
「…………あなたが、あたしが思ってたような人じゃないことはわかった」
小さく、そう言った。
「それでも」彼女は俯いたまま、「あたしは、あなたのようには思えない」
「だろうね」
「あたしはやっぱり人が怖い。怖くて怖くて、心の中ではいつも逃げ出したいって、それしか考えてない」
————ああ、分かるよ。分かるとも。
世界の全てが悪意で出来ているようにしか思えなくて。でも逃げ道は死ぬことだけで。死ぬ勇気も生きる希望も持てずに必死で日々を消化する。
その絶望を、俺は誰よりも知ってるよ。
その暗闇に、光なんて届かないことも。
それでも、君が必死に歩いていることも。
抱きしめたくなるほどの、健気さを。
「こんな言葉で理解できるなんて思ってない」
ただ。
「それでも、同じ思いをした人間が今生きてるってことだけは、覚えておいてくれよ」
彼女は、小さく頷いてくれた。
それだけで彼にとっては充分だった。
「それじゃあ、帰るよ。勝手に上がり込んで悪かった」
そう言ってドアノブを捻る。
その背に、小さな声がかけられた。
「ねえ」
視線だけで振り向く。
「あたしのこと、誰にも言わないでくれる?」
「————ああ、もちろん」
どういうつもりでそう言ったのか、
きっと、理解できるのは彼だけだった。