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彼という男にとって、人生と停滞という言葉は同義だった。
何度季節を越えようと、同じことをただ繰り返していることに、疑問を抱かなくなったのはいつからだったか。自分が何者でもなく何物にもなれはしないと気づいたのはいつだったか。
それを、受け入れたのはいつだったか。
最初からだったような気もするし、つい最近だったような気もする。
その事に不満はなかった。
人生とは、そう言うものだと納得していた。
でも、きっと。
こんなことになると分かっていたら、絶対君にあんなことは言わなかったのに。
「先輩は、みんなとお昼行かないんですか?」
「んー?」
彼女は珍しいタイプの人間だった。少なくとも、彼の職場においては。
「先輩いつもお弁当じゃないですか。みんなとお店とか行ったりしないんです?」
「あー……、まあ金もったいないし」口に残っていた唐揚げを、水と一緒に飲み下す。「つーか、それ」
「?」
「いつまでも先輩なんて呼ばなくていいよ。入社は俺の方が先かもしんないけど年一緒だし。そう言うの、肩こらない?」
「うーん。でも私中途採用だし……」
「言っても俺と数ヶ月しか変わんないじゃん?他の人だって名前呼びとか当たり前だし、そんな気使わなくてもいいと思うけど」
そう言うと、彼女は曖昧に笑った。
————ああ、この顔は。
「ま、そんなの強制することじゃないか」
なるべく自然に話を切り上げる。
多分、これが彼女を個人として認識したきっかけだった。
自分と同じ——他人を拒絶する顔をしていた彼女に興味を持った、きっかけだった。
一度個人として認識すると、彼女と接する機会は意外にも多かった。
「……まあ、当たり前か」
彼女が淹れてくれたコーヒーを啜りながら呟く。
彼の務める不動産企業は、業態規模こそ大きいものの、一店舗自体は大して人数がいる訳でもない。まして、お互い営業職でもなく一日中社内にいれば、接する機会が増えるのも当然の成り行きではあった。
「おーいカズー」
間延びした声に呼ばれた。
作成途中のデータを上書き保存して、席を立つ。
「はいはい課長。なんでした?」
「お前のなー、この前対応してたお客さん。あれ決まったから。契約書作っといてー」
ほい、と顧客情報の書かれた紙を渡される。
「ああ、あれっすか。了解です」
「あー、後なー」戻ろうとした彼を、課長は手招きで止めて、「これ。高山さんの客なんだけどー、あの子まだ契約書作ったことないからさー。ついでに見てやってよ」
「はあ、まあ。全然いいですけど」
首を傾げる。
彼女には一応他の教育係が付いていたはずだが。
「ほらーお前らよく一緒にいるだろー?高山さんもさー、慣れてる人の方がやりやすいだろうし。お前もこれからの勉強になるしー」
「はあ……」
どうやら体のいい押し付けらしい。
まあ、誰に対しても一線を引いている彼女相手にはやりにくい事もあるのだろう。特にこの職場の雰囲気的には。
「了解です」
もう一枚の用紙を受け取って席を離れる。
途中、何となく気になったので、振り返って聞いてみた。
「課長」
「んー?」
「俺と高山さんってそんな一緒に居るように見えます?」
「いるでしょー。いつも一緒に飯食ってるし」
「お互い弁当組ってだけなんですけどね」
思わず苦笑して、彼女のデスクに向かった。
「高山さん」
声をかけると、彼女の背中が一瞬、微かに強ばった気配がした。
「はい」
振り向いた彼女は笑顔だった。
誰も寄せ付けない、完璧な笑顔で「なんでしょう、先輩」と聞いてくる。
「ごめん、驚かせた?」
試しにそう聞いてみる。
「……え、」彼女は焦ったように手を振って、「あの、いえ全然!ただ、城山先輩に声をかけられるのは珍しかったので、その、」
……もしかして。突然の事には弱いタイプか、これ。
普段は鉄壁の外面を作っているだけに、それを看破されると言うのはあまりない経験なのだろう。慌てた様子の彼女に笑いがこみあげた。
「ははっ」
「あ……、その、すいません。ちょっと取り乱しました」
頭を下げた彼女は普段通りの完璧な表情に戻っていた。
彼が笑ったことで逆に落ち着いてしまったらしい。彼としては、もう少し見ていたかったので少し残念ではあるが。
「ごめんごめん。高山さんが慌ててるとこなんて初めて見たから。ちょっとビックリした」
「いえ、その、私こそ……それで、何の用事でしょう?」
「ああ、そうそう」用紙を彼女に手渡す。「それ。高山さんがこの間受けたお客さんらしいんだけど、決まったから。契約書作ってって」
「はい、分かりました。じゃあ野村先輩に聞いて——」
「それなんだけど。今回は俺が一緒にやれってさ。ちょうど俺も契約書作るとこだし」
自分用の用紙を揺らして見せる。
彼女は一瞬怪訝そうな顔をした後、恐る恐るといった調子で聞いてきた。
「……あの、もしかして私、野村先輩になにかしちゃいましたか……?」
「……ああ、」
————なるほど。ここが彼女の核か。
「いや、ただ俺の研修も兼ねてってことらしいよ」
そう告げると、彼女はあからさまにホッとした顔で「じゃあ、よろしくお願いします」と頷いた。
「うん。じゃあやろうか。大体のフォーマットは出来てるから———」
結局、全てが終わったのは定時を少し回った頃だった。
「ごめん、結局俺の方まで手伝ってもらっちゃって」
「いえ。私の事で時間を取らせてしまったので」
むしろすいませんでした、と頭を下げられた。
「いいよいいよ、気にしなくて。俺なんて、最初教えてもらった時は倍くらい時間かかったしね」
PCの電源を落としながら、笑って手を振る。
「電気と施錠は俺やっておくからさ。先帰りなよ」
「えっと……、じゃあ、すいません。よろしくお願いします」
彼女はもう一度会釈して、歩いていく。
その後ろ姿で、ふと思い出した。
「ねえ、高山さん」
「はい?」
「お節介かもしれないけどさ」作成した書類を自分のデスクに置いて、「本当に他人を拒絶したいのなら、もう少し本心を隠した方がいい」
「————、」
「君、他人が怖いんだろう?」
真っ直ぐに。視線を合わせてそう告げた。
「……そんな、ことは」
「ないことはないだろ」
ピシャリ、と否定に否定を重ねる。
「今日、教育係が俺だって聞いた時。君、怖がってたろ」
他の誰を誤魔化そうと、彼だけは騙されない。
彼女のあれは間違いなく恐れだった。それも、他人を害してしまったことに対する恐れではない。他人を害してしまった結果、自分に向けられる悪意への恐れだ。
他人を慮るような皮を被っただけの、醜悪な自己保身。その結果が彼女の恐れであり、彼女の発言だった。
「誰にだって距離を置くのもそうだ。近付けば近付くほど、本心を隠すのは難しくなる。だから君は、全てに対して距離を取る」
自分の言葉がやけに大きく聞こえる。
まるで、時間の流れから切り離されたように、このオフィスには彼の言葉しか響いていなかった。
「そこまで他人を怖がる理由なんて聞くつもりは無いけどさ」
「………、……さい」
「でも、今の君はそれを隠そうとし過ぎていて逆に不自然だ」
「……て、ください」
「見てていたたまれないんだよ。だって———」
「———やめてくださいっ!!」
彼女のそんな声は、初めて聞いた。
彼を睨みつける目も、初めて見た。
そこに溜まる涙など、絶対に見ることはないと思っていた。
言葉に詰まった彼に背を向けて、彼女は逃げるように去っていく。
扉が荒々しく閉まる音だけが残響していた。
「…………初めて、お疲れ様ですって言われなかったな」
頭を搔く。デスクの端に置かれたマグカップが目に入った。
冷めきったコーヒーを啜る。
「本当に、いたたまれないんだよ————」
だって、それではまるで。
「————昔の俺を見てるみたいじゃないか」
コトリ、と。
空になったマグカップが音を立てた。