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「彼女の症例は極めて珍しい——と言うより彼女以外には見られないものです」
真っ白な部屋の中。医者が告げた言葉はどこか遠くの作り話のように響いた。
「彼女自身には何も悪影響はありません」
「しかし、彼女以外は別です」
「植物が酸素を吐くように、動物が二酸化炭素を吐くように、彼女が吐くのは致死性の毒」
「こう申し上げるのは酷ですが——彼女は生きているだけで、我々にとって害となってしまうんです」
体中の細胞が変異したことにより、彼女は呼吸をするだけで毒素を作り出してしまう体になった。名前すら付けられなかったこの新種の毒素は彼女の呼気によって周囲へ広がり、例外なく生命を死に至らしめる。原因不明、対処法不明、治療法不明。それが、後天性体細胞変異症。彼女のためだけに作られ、彼女にのみ使用される病名だと、医者は言った。
————何の、冗談だこれは。
冗談を言うにはあまりに場違いだろう。あまりに不自然な状況に彼は笑う。
医者の向ける哀れみの目さえ、出来すぎていて滑稽だった。
「お気持ちはお察しします。ですが、現代の医学で彼女の病気は——、」
「察する?」
何を言っているんだ、コイツは。
「なあ、今察するって言ったのか?窓すらない部屋に隔離されて、ガラス越しにしか会うこともできない、あいつを抱きしめることも、手を握ることもできない!言葉すら機械音に変えられてあいつの本当の声をいつか忘れていってしまうかもしれない!!それを!分かるって言うのか!!何が分かるんだ!何が分かるんだよ!!分かるのなら言ってみろ!!俺の前で言ってみせろよ!!!」
蹴倒した椅子が床を転がった。どうでもいい。弾き飛ばしたいくつもの紙が宙を舞った。どうでもいい。机に叩きつけた拳から血が滲んだ。どうでもいい。
今は、この、目の前にいるふざけた男以外は全てどうでもいい。
誰かが入ってくる物音がした。うるさい黙れ。
誰かに背後から掴まれた。邪魔だ離せ。
男を睨めつける。男は彼を正面から見つめ返していた。
「……とにかく、彼女本人にどう伝えるかはあなたにお任せします。我々は本人から直接希望がない限りお話致しませんので」
そう言って、深々と頭を下げる。
その光景すら、作り物の映画じみていて、まるで誰かに笑われているようだった。
彼が病室のドアを開けると、彼女は読んでいた本から目を上げて微笑んだ。
————その笑顔だけで、告げる言葉はもう決まった。
微笑む彼女に手を振って、壁掛けの受話器を取る。
「ただいま」
「おかえり、和希。どうだった?」
「ああ、ちゃんと聞いてきたよ」そっと息を吸って、「異常はない。しばらく経過観察すれば退院できるってさ。良かったな」
笑え。微笑え。咲え。
一欠片の不安も抱かせないように。万に一つの疑いすら持たせぬように。
「そっか、嬉しい。鈴蘭が咲く頃には帰れるといいな」
「そうだな。きっと帰れるよ。鈴香がちゃんと安静にしてたら、だけどな」
「あ!ひっど!和希私の事完全に子供だと思ってるでしょー!!」
「ほらもう安静にしてないじゃん」
「うっ……、分かった。安静にする」
振り回していた両手を降ろし、決まり悪そうにしている彼女を見て泣きそうになる。
こんなに愛おしく思う日が来るなんて思いもしなかった。こんなに愛おしく思う日なんて、一生来なければよかった。
「俺、今日はもう帰るけど。なんかやっておいて欲しいこととかある?」
「うん?和希が自分からそんなこと聞いてくるなんて珍しいね?」
「退院するまでの期間限定キャンペーンだからな。なんもないなら本日の営業は終了ってことで」
そう言って受話器を置こうとする彼を、あー!待って待ってー!とガラス越しから慌てた様子で彼女は止めた。
「うーん、やって欲しいこと……、あ!そうだ鈴蘭!鈴蘭に水あげといて!あたしが帰った時に枯れちゃってたとかやめてよね!」
「了解了解。他は?」
「うーん、ご飯ちゃんと食べてね?」
「お前はお母さんかよ」
「いやー、和希のことだから帰ったらカップ麺の残骸が散乱してそうなんだよねー。あ、ちゃんとゴミも出してね」
「はいはい。じゃあ帰るぞ」
「あ!和希!」
「なんだよ歯ならいつも磨いてるよ!」
「……明日も、来てね?」
「————、ああ。当たり前だろ」
背中越しに手を振って、病室を後にした。
今の顔を彼女に見せたら、きっと何も隠すことなんてできなさそうだったから。
パタリ、と。
玄関扉の閉じる音がやけに大きく聞こえた。
一人の部屋というのは、やけに物音が大きく感じる。昔はそんなことなんて思わなかったはずなのに。
「……一人の部屋で感傷に浸る、か」
自嘲して笑う。病院では散々作り物めいているだなんだと言っていたくせに、自分も大概ヒロイックだ。
「明日までには何とかしとかなきゃなあ」
脱いだ靴を靴箱へ放り込む。玄関には女物の靴がいくつも放置してあり、整理すれば一足くらいのスペースはすぐに作れたが、どうしてもそれを片付ける気にはなれなかった。
細い廊下を抜けてキッチンに出る。
彼女と一緒に生活をするようになってから、滅多に立ち入りを許してもらえなかった厨房は、いつもの様にきれいにされていて、待っていれば彼女がやってくるような錯覚がする。
洗面所は。
リビングは。
寝室は。
「———ハッ、ダメだなこりゃ」
苦笑が漏れる。
たった一年。たった一年一緒に過ごしただけで、この部屋のどこに行っても彼女のいない場所はなくなってしまったらしい。
逃げるように部屋を出る。
臭いからと、唯一彼女が避けていたベランダで、タバコに火をつけた。
「こんなんで、どうやって」
感傷に浸るなと言うのか。
ビル風に流されて揺蕩う煙を眺めて、ふとそれが目に入った。
「鈴蘭……」
まだ四月に入ろうかという時なのに、プランターの中では青い芽が土を割っていた。
病室での会話を思い出す。
プランターの横に置かれた、ジョウロと手袋に手を出そうとして、
『鈴蘭ってね、すごくカワイイ花を咲かせるんだけど、葉っぱに毒があるんだって。だから触る時は手袋しないとかぶれちゃうの』
彼女は珍しく悲しげな顔をして、そう言っていた。
『悲しいよね。こんなに綺麗なのに、誰にも触れられないなんて』
ただ、生きているだけなのにね、と。慈しむように。慰めるように。
『でもあたしは、触れなくても大好きなんだけどね、鈴蘭』
——ああ、本当に。
「……俺は、鈴蘭が大嫌いだよ」
————鈴蘭など、枯れてしまえばいい。
————こんなにも、君に似ている花なんて、世界からなくなってしまえばいい。