【プロローグ】
──今日一日を、やり直したいと思った。
──納得のいくまで、何度でも何度でも。
「……はぁ」
口にくわえていた指を離すと、自然とため息が漏れる。
指先に残ったかすかなチョコの匂い。
力み過ぎていたのか、はたまた練習をしすぎたのか、肩と腕には重たい鈍痛がわだかまっている。
軽いストレッチをしながら、カレンダーを見つめた。
二月十四日までの日付がバツで消されて、今日は二月十日、月曜日。
同じ週の金曜日。
二月十四日の欄内には「バレンタインデー」という書き込みと、ハート印がかいてある。
──四日。
あと四日しかないんだ。
それなのに──あたしの料理は未だに目標レベルに届く気配がない。
「あと一回だけ……」
反省点を確認して、もう一度キッチンでチョコブラウニーを作り始める。
午後十一時半前。
今日はこれが最後の練習になる。
腕に感じるチョコとボウルの重み。
加えた力が泡立て器に伝わり、ボウルの中のチョコたちが震える。
振動は音となり、チョコを波打つように動かし、クルクル表情を変えていく。
あたしはこのお菓子が──「チョコブラウニー」が大好きだ。
甘くて少しほろ苦い。
印象的な味が何度も下の上で繰り返される、まるで恋心のような味のお菓子。
初めて食べたのは小学生の頃で、調理実習のときにはじめて、「あいつ」と一緒に作った料理でもある。
だから今回のバレンタインデーで渡すのは、このお菓子しか無いと思った。
どうしても、「大輔」のために一番好きなお菓子を作りたかった。
なのに、
──ガシャン、ボウルが傾いた──
──手首に痛み。力が入り過ぎてる──
──チョコがこぼれる、これで四度目──
──まずい、めちゃくちゃに──
繰り返される悪循環。
苛立ちが熱になって身体中に溢れる。
そしてついに、
「──ああもう!」
料理の最後にたどり着く前に、たまらず調理器具から手を離してしまった。
キッチンの上に音をたてて散らばっていく調理器具たち。
「なんでこんな、ボロボロなんだ……」
焦りに任せて、ガシガシ頭をかきむしる。
窒息しそうに息苦しくて、エプロンのボタンを一つ開けた。
酷過ぎだ。
料理が得意ではないあたしには高難度なのはわかっていた。
自分一人には背伸びが過ぎることも。
だからこそ、このお菓子を作ると決めてからは、寝る間を惜しんで練習してきたつもりだ。
なのに、ここまで苦戦するなんて。
今年こそは、必ず思いを伝えなければいけないのに、こんな調子じゃ喜んでもらうどころか渡すことだって出来るか怪しい。
顔を上げると、戸棚に飾られたあいつの写真が目に入る。
壁に貼ってあるプリクラや、戸棚の中の卒業アルバム。
そんなものを通じて、あいつが情けないあたしをじっと見ているような気がした。
あいつなら──大輔なら、きっと今のあたしじゃ絶対に喜ばない。
こんな出来じゃ、満足してくれない。
せめて、もっと時間があれば、例えば自己ベストのお菓子ができるまで、毎日延々練習を繰り返すことができればいいのに。
そんな風に毎日を過ごすことができれば、きっとお菓子の出来は目標レベルに仕上げられるのに。
バレンタインデーの日まで、最良の一日だけを繫げていくことができれば。
けれどそんな風に思うのはつまり、喜んでもらうことは絶望的だと自覚している証拠でしかなくて。
思わず口にしないつもりだった弱音がこぼれてしまった。
「……どうすればいいんだろう」
小学生のころからずっと友達だった。
これからも、ずっと友達なんだと思ってた。
相談事はいつでも真っ先に話したし、ジュースの回し飲みだって気にせずしてた。
寒いときには、勝手に上着を借りたことだってある。
だからそう。
十年後も二十年後も、いまのままでいられそうな気がしていたんだ。
なのに。
なのに突然……「好きだ」なんて。
「はぁぁ……」
部屋に伸びている自分の影を眺めていると、自然とため息が漏れた。
順番に視界に入る、左右の靴下の足先。
気にしたことなんてなかったけど、元気がないときは足取りも弱々しくなるんだと初めて知った。
二月十日。
月曜日。
大事な話を伝えると約束しちゃった日まで、あと四日。
それなのに、あたしは答えを出せずにいた。
これまで何度もくりかえしてきたように、あいつの顔を思い浮かべて考える。
付き合った方がいい?
それとも、やめておくべき?
仮に付き合うとして、友達から急に恋人になるなんて無理じゃない?
小学校で初めて同じクラスになってから、今年で八年。
その間、あいつをそんな目で見たことなんてなかったし。
でも、だからってやめておくの?
そんなことしたら、これまでどおり友達としてふるまうこともむずかしくならない?
だいたい、付き合うって何なんだろう?
具体的に何がかわるんだろう?
どうしてあいつと付き合いたいなんて思ったんだろう?
あいつのどこがよかったんだろう?
「うーん」
考えれば考えるほど、疑問はふえていく。
最近はあいつにどう接すればいいのかもわからなくて、今日だって、距離が測れなくてぎくしゃくしてしまった。
……ふと頭によぎる、悲しげなあいつの顔。
「あーもう!」
やけぎみに窓を開けて空を見あげると、空は水彩画みたいな淡い色合いの星空だった。
そういえば、あいつとはじめて出会ったあの日もこんな星空だったような気がする。
そう、あの日は小学四年生の七夕の日だったんだ――。