あなたに跪いて、手にキスをして
「あのね」
クラスの女の子に呼び出されたのは、人のいなくなった放課後だった。
彼女の名は、確か、え……絵里とか言った気がする。
小柄で、私なんかとは違う可愛い感じの女の子だ。
「相談があるの。聞いてくれませんか?」
可愛い女の子の頼みなんて、断れる訳がない。
もちろん、と機嫌よく答えて、私はまったく違うことを考えていた。
連載中の小説、続きどうしよっかな。
つまり、事をそんな重大に捉えていなかったのである。
学校で特別人気のないテラスに足を運ぶ。
にんき、ではない。ひとけ、である。
昼間には生徒が席を奪い合うその場所は、いまは誰もいなかった。
長い机をはさむようにして、絵里ちゃんと座る。
彼女はおずおずと話し出した。
さて、お分かりかと思うが、彼女の相談とは。
「好きな人が最近、ほかの女の子と話してるんだけど、どうすればいいかな」
恋愛相談である。
帰る準備のためロッカーに駆け寄った私に、何も用意しなくていい、そんな風に言った彼女。
にぶい私でも分かった。
あ、これ、勉強とかじゃないヤツだ。
しかし、同時に安心もした。
私は、授業を真面目に受けるタイプではあるが、テストのほうはさっぱりなのだ。
人間関係なら、それなりに言えることもあるかもしれない。
私は相槌を打って、彼女の言葉を待った。
「それに、私と話をしてくれなくて」
「それってどのくらい?」
「うーん、二週間ぐらい前から」
私は度合いを聞いたのに、期間が返ってきた。
それにも驚いたが、内容にも驚いた。
そんなの、誰が聞いたって別れろ、その一言で済む。
それでも関係を続けようとする彼女は、そのいじらしさは、女子から見て可愛かった。
「え、全然会話ないの」
「うん。前は私の席まで来てくれたんだけど、それもなくて」
「えーと、それ、平たく言ってもしかして」
「私に興味なくなっちゃったのかな……」
おおっと、こんしんのミス!
こんなセリフを相談者に言わせてしまった。
私は脳内でとぼけながら、彼女の話を聞いていく。
私なら、こんな可愛い彼女には飽きないがな。
顔も名前も知らない相手を貶めながら。
「なんか言われた?」
「ううん。急にそういう態度になって」
「二週間前からだよね。……別れたほうがいいよ」
「やっぱり、そう思うんだ」
やっぱり?
私は彼女の言葉に疑問を持った。
しかし、彼女の口調からは、自分もそう思っている、とは読み取れない。
誰か別の、第三者にそう勧められた、そんな言葉だった。
そこで、ふと私は思い当たる。
私なんかよりも、彼女がまず最初に相談するだろう人がいることに。
松島 優奈……さん。
このクラスで一番の成績を誇る、優等生。
彼女は、絵里ちゃんと仲が良かった。
それはもう、一番の親友といって差し支えないほど。
「ユウも、そういうの」
「……だろうね」
絵里ちゃんは、優奈さんのことをユウと呼んでいる。
決して勉強が得意でない彼女は、優奈さんをそういう意味でも頼りにしていた。
そう、初めから私なんてお呼びでなかったのだ。
「でもね、私、まだ、あの人といたいの」
「……うん」
「あの人と話して楽しかったの」
「そっか」
彼女は、自分が過去形のセリフを吐いていることに気が付いていない。
いや、頭のなかでは分かっているのかもしれない。
この先に、彼との未来がないことを。
それでも諦められない。
そんな気持ちは痛いほどよく分かった。
「変でしょ? 分かってる、もう私を見てくれないんだろう、って思う」
「……」
「どうしたらいいんだろう、ね」
そうやってこっちを見る絵里ちゃんは、大人びて見えた。
彼女の後ろに広がる夕焼けが眩しい。
小柄で、ちまっとした、はにかんだ笑顔が可愛い彼女が、こんなに。
ただの女子ができることなんて、慰めの言葉をかけるほか――。
だが、相談相手は私。
そこらへんの学生より残念な脳みそをしている。
脳内の私は腕をまくっていた。
気分は江戸っ子。もしくはヤンキー。
さてはて、絵里ちゃんを傷付けた男はどいつなんですかね?
ぶちのめさなきゃ、気が済まないぜ。
「もっかい言う。別れたほうがいいよ」
「……」
「そうでなくても、男のほうにちゃんと言ってもらわないと」
「え?」
「下半身直結野郎なら、ちゃんと自己紹介していただかないといけないからね」
すまん、絵里ちゃん。
私はこういう、口汚い女の子なんだ。
罵ってないと負けちゃうから。
「よく分からないけど、美月ちゃんっておもしろいね」
「うん?」
「なんでもない。あのね」
いつもの絵里ちゃんに戻った彼女は、はにかむ。
ハニカム構造。
一瞬よぎる単語はスルーイットして、覗き込んできた彼女を見返す。
「実は、ユウに美月ちゃんに相談してみたら、って言われてたの」
「なんと」
「あの子も私と同じことを言うはずだからって」
「はは……買いかぶりですよ」
思わず敬語になった私。
私と優奈さんは、友だちでも何でもない。
普通なら、同じクラスの女子ってだけの私に声がかかる訳がない。
おかしいな、あはは。
乾いた笑いがこぼれた。
……む、絵里ちゃんが不思議な顔で待ってらっしゃる。
これは早く返答を返さねば。
「彼とのBarは持ってる?」
「う、うん」
「最近、そっちでの会話は?」
「ううん。あ、でも、私が聞いたら答えてくれたよ」
メッセージアプリケーション、Bar。
誰もが知るスマホ用の便利アプリだ。
私も家族との連絡手段は、これを使っている。
あと、クラスの連絡用とか。
「どんなこと聞いたの?」
「最近話しかけてくれないから、どうしたのって」
「おおう、結構直球。それで?」
「学校だと話しづらいから、って。二人っきりになればいいのかな」
正直、それは二人っきりになったらアウトな気がした。
ほかの女に手を出しておきながら、何も言わないヘタレと言えど、相手は男である。
絵里ちゃんが汚される未来しか見えない。
そういえば、絵里ちゃんは……どうなんだろう。
もう18歳は過ぎたから、そういうことしてても不思議じゃないけど。
けど、きょとんとこちらを見てくる彼女は、違う気がした。
「……近くのデパートとかに遊びに行ってみたら?」
「デートってこと?」
「デートでもなんでもいいけど、学校じゃ喋れないんでしょ? 学校じゃないとこに行けばいいんだよ」
「そっか。ありがと。ユウにも聞いてみるね」
絵里ちゃんは、ちょっと笑った。
馬鹿な私の、せめての答え。
これで、彼女の心は少し軽くなっただろうか。
群衆の中なかの二人きり。
厳密に二人っきりって訳じゃないけど、まさか大勢の人の前で手は出すまい。
外は暗くなっていた。
またね、と手を振る絵里ちゃんのなんと尊いことか。
ドゥルルン、アクセルの音が響く。
さて、私も帰んないとな。
自分の車に乗り込んで、好きなCDをかける。
そう、このとき私は。すべて終わったのだと思っていたのだ。
女子からの呼び出し、二回目。
今度は昼下がりだった。
今日は授業調整日だとかで、課題の時間があったのだ。
授業は真面目に受ける系女子の私には、課題などない。
そんな風に高をくくっていた私に、同じく課題のない優奈さんが話しかけてきたのだ。
移動先はまたしてもテラス。
みんな好きね、ここ。
いかに昼下がりと言えど、今は授業中。
やはり人はいなかった。
「絵里から話を聞いたよ」
「お店デートプランのこと?」
「それもだけど、親身になって聞いてくれて、嬉しかったって」
優奈さんの言葉に、私は首を傾げた。
はて、そんな振る舞いをしただろうか?
私はただ、その不埒な野郎をぶちのめしたかっただけなのだが。
素知らぬ顔で、優奈さんの向こう側の窓を見つめていると、彼女がふいに言った。
「あなたなら、二股かけられる女の子の気持ちが分かると思ったんだ」
誰もいないとは言え、とんでもないセリフを言ってくれるものだ。
まだ深夜な時間じゃないんですけど。
せめてそういうセリフは夕方まで残しておいてほしいんですけど。
あ、今の時間、昼ドラのゴールデンタイムか。そういう意味でか。
脳内で目まぐるしく巡るこんな言葉を返せる訳もなく。
私は、口をへの字に曲げて答える。
「あなただってそうでしょ」
「私は……。まあ、そうだね」
実のところ、優奈さんと私はとある関係にある。
友だちではないが、かつて同じ男を奪い合った仲なのだ。
いや、これでは語弊があるか。
簡単に説明すると、私の恋人が二股をかけたのだ。
その相手が優奈さんだった。
よくも、そんな高嶺の花を狙おうと思ったものだ。
我が元カレながら、尊敬す――いやゴミを尊敬とかないな。ないわ。
そんなゴミのことなどはよくて。
そういう事情に疎かった優奈さんは、私の元カレと付き合い始めたのだけれど、周りにあれこれ言われて、慌てて彼を諫めたらしい。
誰かを好きになるのは自由だけど、ちゃんと区切りは付けるべきだ、と。
その辺りを容赦なく厳しく言い聞かせた優奈さんは、振られた。
あれこれ言ってくる女は嫌いだったらしい。
それで、元カレは私の元に舞い戻ってきた訳だが、私だって甘くない。
優奈さんと二股をかけた噂は、とうの昔に知っていて。
寝言は寝て言え、そう突き放して奴とは別れた。
このことは、これで終わったはずだった。
「ごめん、気遣いが足りなかったね」
「いや、私、全然優奈さんのこと、恨んでないから」
「……そう言ってくれて助かるよ」
微笑む優奈さんは、美しい。
造作がどうとかじゃない、所作が美しいのだ。
いい人だと言うのが、あちこちからにじみ出ている。
羨ましいことである。
残念な頭ぐあいがにじみ出ている私とは違うようだ。
「それでさ、二週間後の土曜日に遊びに行かない?」
「それ、私に言ってます?」
「ここにはあなたしかいないよ?」
私、霊感なんて持ってないよ?
そう言って、不思議そうに周りを見渡す優奈さん。
きゅ、急に話題が変わったので、ついていけませんでした。
敬語になってしまったのもそのせいです。
誰への弁解なのか、私は早口でつぶやいた。
「遊びに、って。どこに行くんです?」
「カラオケ。絵里と行くんだ。良かったら、あなたもどうかなって」
「そ、そうっすか」
では、ごゆっくり。
脳裏にはそんな言葉が浮かんだが、当然ながらそんなセリフ吐ける訳もない。
そんなことができるのは、お話のなかだけだ。
とっさに発言できるほど、私のコミュニケーション能力は高くない。
仕方ないので、私はこう言うしかなかった。
「ご相伴させていただきます」
「ありがと! それと、絵里にはさ」
嫌な予感がした。
なにがどうとか具体的なアレではなくて。
優奈さんの挙動が怪しかったのだ。
お願いするように手を合わせた彼女は、こう言った。
「あなたのこと、恋愛小説書いてる人って紹介しちゃったんだ」
「マジ?」
「ごめんね。うまく話を合わせてくれないかな」
やめろ、なんてこと言うんだ!
そういえば、相談に来た絵里ちゃんの瞳はなんだかキラキラしていた。
そうか。そういう期待で……。
私は残念な女の子である。
残念なことは重なるものだ。
非常に残念なことに、絵里ちゃんの期待には添えそうにもない。
私は。私が書いているのは……BL小説なのだ。
結局、絵里ちゃんは恋人と別れた。
休日デートで話し合ったけれど、以前のように楽しくなかったのだとか。
絵里ちゃんのほうも、彼に興味を失くしていたのだろう。
あくまでも、彼女が愛したのは過去の彼。思い出のなかの彼。
過ぎ去った今日の彼は、対象外だったということらしい。
そんな彼女は、いま、カラオケの一室で熱唱している。
可愛らしい声で、退廃的な歌詞を歌っている。
意外であった。
「絵里ちゃんのイメージが変わったよ」
「ふふ。絵里は可愛いだけじゃないんだよ」
「優奈さんのイメージも変わったけどね」
「わ、私はあのアーティストが好きなんだよ!」
「恋とか愛とか、優奈さんの口から聞く日が来るとはね」
意外なことに、可愛い歌が好きなのは優奈さんのほうだった。
……そんな恋愛模様を想像していたなら、さぞかしショックだっただろう。
最初があれだったなんて。
私は、最高に病んでるメロディをバックに、優奈さんに話しかけた。
「優奈さんもアイツからされた? 壁ドン」
「え?」
「あごクイとか」
「ちょ、ちょっと待って。駿太くんのこと?」
「あのゴミを君付けなんてしなくていいよ」
「ご、ゴミ……」
呆然としている優奈さん。
あれ? 知らなかったのか。
うっかり。真実を知らしめてしまったぜ。
まったく反省していない私は、椅子から降りて、彼女に跪いた。
「失礼いたしました、姫君」
「え!? ちょ、あの、次の曲が始まっちゃうから!」
慌てている優奈さんの可愛いこと。
なになに? と近付いてきた絵里ちゃんからマイクを受け取って。
あなたを優先するから、とか。
優奈のほうが素で話せるんだ、とか。
キスしてくれたらあなたのこと見るよ、とか。
ひどい言葉を色々もらったもんだ。
背も低いくせに、無理して壁ドンして。
それでも、思い出のなかのあなたと過ごした時間は輝いている。
だけど、これだけは言わせてほしい。
こんな、アホみたいなやり取りは、女子が冗談でやるから映えるんだよ。バーカ!
私は、もう別の女の子にうつつを抜かしている元カレに向かって。
そしてこれから流れる曲のために。
大きく息を吸った。