憂鬱な春の夜
金曜の夜だというのに私の心は沈んでいた。
缶ビールを片手にテレビを見ても、昼間の上司の言葉が狂ったカセットテープのように頭の中で繰り返される。
ーー君って調子が悪くなるといつも「私なんて」って言って逃げるよね。
逃げてなんかない、ふざけんな、このクソ上司め! 今さら頭の中でどれだけ強く言い返せても、あの時の惨めな私は消え入るような声で「すみません」と答えることしかできなかった。
ああ、私なんてこんなものだ。安全地帯でひとり毒吐くような小さな女だ。できることならこのまま誰にも気付かれずに消えてしまいたい。そう思うのももう何度めのことだろうか。
いつのまにか最後のビールが空になっていた。ひどく不安な冷たい塊が私の胸を押し潰そうと襲ってくる。財布をズボンのポケットに入れ私はすぐに家を出た。
道路に立つと春の夜風が私のささくれた心を撫でまわした。そのとき、どうしようもない気持ち悪さがこみ上げてきて、暗い側溝に嘔吐した。胃液とアルコールの混ざった臭いが口の中に広がった。コンビニまでの数分の道のりが果てしなく長く感じた。
コンビニに他の客の姿はなかった。ベトナム系の外国人アルバイトの男性が一人、商品棚の整理をしているだけだ。私は缶ビールを三本手に持つとすぐにレジカウンターに向かった。レジ横の温蔵庫には肉まんがひとつだけ残っていた。私はこほんと咳払いをひとつした。アルバイトの男は手に持っていた商品を乱雑に棚に置くと、落ち着きのない挙動でカウンターの内側に入った。
「肉まんひとつ」
私が商品を頼むと、男は何も言わず精算機を操作した。画面には肉まんの値段が表示される。
続けて男がビールのバーコードにセンサーを当てると、ピロンと小馬鹿にしたような音が鳴り、モニターに年齢確認ボタンが表示された。
「画面のタッチをお願いします」
男の日本語は想像以上に流暢だった。
支払いを済ませた商品を手に店を出ようとしたとき、入口のガラス戸に写った姿を見て自分が部屋着だったことを思い出した。紺色のパーカーにグレーのスウェットパンツの女が右手に肉まんを持ち左手にビールの入ったビニール袋を提げている。口紅のひとつもしていない自分の姿に私もとうとう女を捨てたかと悲しくなった。私は私から目を背けるように店を出た。
もともと自分の女らしさに自信があったわけではない。むしろ逆だった。醜い顔を厚い化粧で必死に誤魔化し、喋るときも表情を動かさないように気をつけてきた。
しかし、今はそれも無駄な努力だったとわかる。容姿に関係なく、人間として優れた女性は幸福な人生を送っている。結局のところ化粧をしていようが着飾っていようが、私なんて誰からも見向きもされない哀れな売れ残りなのだ。
--君って調子が悪くなるといつも「私なんて」って言って逃げるよね。
上司の言葉が呪いのように頭の中に浮かび上がった。私は逃げるようにビールをあおり飲んだ。
缶ビールがまた一本空になった。軽くなったアルミ缶を部屋の隅に放り投げると、缶はゴミ箱の縁にあたり、カランと音を立てて床に落ちた。残りの二本の缶ビールが私の寿命のように感じた。
そのとき、スマートフォンのコール音が鳴った。未だに付き合いのある唯一の友人からだった。
「はい」
『あ、夜遅くにごめん。明日予定空いてたりする?買い物付き合って欲しいんだけど』
「一応、空いてるけど」
『じゃあ、明日九時半に新宿のいつものところね。おやすみ』
私の返事を待たずに彼女は電話を切っていた。彼女からの電話はいつも業務連絡のように短く一方的だ。私の事情なんて一切気にしない。
急に入った明日の予定にめんどくさいなと呟きながら、缶ビールを二本冷蔵庫に入れた。冷気がひやりと身体に沁みた。




