Ep35 一夜(後)
「目、覚めたか?」
宇治原さんの低い声。
相当長い時間眠っていたらしく、窓の外は夕日に赤く染まっている。
「具合どうや?」
「悪くないね」
少なくとも・・・動けないほどじゃない。
「ええはずないやろ・・・内臓に損傷があったで」
「『ケリュケイオン』、使ったんでしょう?」
「まぁ・・・その傷の深いところにはな。けど時間なかったからな、あとは基本止血だけや・・・動き回れる状態やない」
医者の立場から言わせてもらえば・・・と宇治原さんは言う。
「絶対安静や」
苦い顔で俺を見ている宇治原さんに微笑んで答える。
「でも・・・今の立場ではそんなこと言ってる場合じゃないでしょ?」
「お前なぁ、それだけやないやろ!」
壁をこぶしで叩く。
・・・・・・やっぱり、気づくよね。
「それ・・・誰にも言わないでくださいね」
「何・・・お前」
「行かなくちゃ」
隙を突いて脇に置いてあった刀を掴むと、宇治原さんの懐に入りみぞおちを思い切り鞘で突いた。
「一夜・・・・・・・」
意識を失い、崩れ落ちる彼の姿。
ふと服を見ると、血の染みは綺麗になっている。
今まであんまり付き合いなかったけど・・・優しい人だったんだな。
俺は振り返ることなく、夕日の中へ歩み出る。
『天象館』の前。
「・・・来るでしょうか?」
霞様が誰に言うでもなくつぶやく。
腕組みをして壁にもたれ、空を見上げている草薙さん。
精神統一のつもりなのか本を手にしているが、全く進む気配のない来斗さん。
膝を抱えて一点を見つめている藍さん。焦点の定まらない瞳・・・
同じ方向をにらみつけるようにしている愁さん。
そして、『蛍丸』を抱えた冷静な表情の剣護さん。
集合してから、誰もほとんど口をきいていない。
「来るだろうね」
来斗さんが言う。
「あいつは言うことやることは支離滅裂だが・・・約束は絶対守る」
「その通り」
愁さんも言う。
「・・・・・・・・・・・・あの子」
無口なみんなの中でも一番、今まで一言も発していなかった藍さんが口を開いた。
びくっとした表情の愁さん。
みな、藍さんに注目する。
藍さんはぼんやりしたまま、つぶやく。
「・・・・・・・・・・死ぬつもりなのかもしれない」
「な・・・何言ってるんですか!?」
思わず怒鳴ってしまう。
「だって、何のための天象館ですか!?どんなに大きなダメージを受けても、ここなら」
「剣護を殺してしまうことはない」
「・・・そんな」
来斗さんが、落ち着いた声でたずねる。
「何故、そう思う?」
「えっ・・・?」
「・・・・・・あいつに・・・何か言われたん?」
一瞬はっとした顔をするが、また暗い表情で押し黙ってしまう。
こんな顔してる藍さん・・・初めて見た。
重苦しい沈黙をやぶるように藍さんの頭をぐしゃっとなでたのは、草薙さんだった。
「三日月!お前さ・・・何かあったのか?」
草薙さんを見上げる藍さん。
「ここにいるみーんな気にしてんのに、お前がそんなだから聞けねえんじゃねえか。昨日の夕方の凹みっぷりもひどかったけどなぁ・・・ひっでえもんだぞ、今のお前の顔!」
藍さんの頭に伸びた草薙さんの手を払いのけると、愁さんが怒鳴った。
「龍介!お前無遠慮にも程があるで!?」
「うるせーなぁ!俺は三日月の上司なんだよ!」
愁さんの胸倉を掴むと怒鳴り返した。
「俺は部下の状態を知っておく義務があんの!!!俺は三日月が入隊してから4年、ずーっとこいつを見てきたけど!こんな三日月初めてなんだよ・・・じゃあ、みーんなで黙ってりゃ解決するっつうのかよ!?」
草薙さんなりの・・・優しさなのだ。
うつむいて黙る愁さん。
その時、木陰から声がした。
「相変わらず・・・みんな元気だねぇ」
一夜だった。
明け方に別れたときよりも・・・なんでだろう、顔色が悪い。
もともと色素の薄い顔が、青白く感じる。
しかし本人は何事もないように涼しい顔で、
「藍、お待たせ」
にっこり笑って私に手を振る。
私はひどく動揺して・・・みんなに悟られないように少しうつむく。
なんて奴。
でもそんなこと・・・ずっとずっと前からわかっていたことだ。
「遅かったやないか?」
こわい顔で愁が言う。ちょっとね・・・と事も無げに答える一夜。
「じゃ、始めようか」
「待ってください!」
右京が言う。
「本当にこんなことしなくちゃいけないんですか!?・・・ずっと親しかった人達が傷つけ合うなんて・・・そんなの辛すぎます!」
来斗が一夜に問いかける。
それは・・・
思いもよらないことだった。
「一夜、お前・・・孝志郎と決別したそうだな」
「!」
「・・・なんだって?」
「昨夜、孝志郎から無線が入った」
『一夜が来てるか?』
いきなり聞こえてきた孝志郎の声はそう問いかけたという。
『この無線・・・まだ繋がってたのか!?』
『そのようだな・・・俺も驚いたぜ。みんな元気か?』
『ふざけたことを・・・一夜を差し向けたのは、やはりお前なのか?』
『一夜の行動は俺の範疇外だ』
図書館に響く、孝志郎の声。
『あいつは一昨夜出て行ったよ・・・理由も何も告げずにな。差し向けた大勢の追っ手も、みーんな切り捨てて行きやがった』
『・・・じゃあ何故』
『さあな・・・・・・そんだけだ、じゃあまたいずれ』
「孝志郎がねぇ・・・どういうつもりだろう」
一夜が嬉しそうにつぶやく。
「きっと俺がこうすること、あいつにはお見通しだったんだろうな」
なぁ、とまた私のほうに笑いかけて同意を求める。
本心はどこにあるにしろ、その表情はこの状況を心から楽しんでいるようだ。
間に割り込んで愁が言う。
「お前のねらいは・・・一体何や!?なんでこんなことしようと・・・」
「わがままだよ」
にっと笑って、答える。
「いつもの俺のわがまま」
もういいじゃねえか、と剣護が強い口調で言う。
「お前を斬る覚悟は出来た」
「そっか」
微笑んで剣護に答えると前に進み出る一夜。
もう、誰も二人を止めようとはしない。
座り込んだままの私の前にしゃがみこみ、手を伸ばして頬にふれる。
「藍待ってろよ。後で迎えに来るから」
一夜の顔をじっと見つめて、小声で訊ねる。
「賭けのこと・・・忘れてないでしょうね?」
ちょっとびっくりしたような顔をして、その後また表情を崩して言った。
「勿論覚えてるよ!?・・・俺もちゃあんと考えてあるから安心しな」
「そんな必要ないわ・・・」
じっとその目を見つめたまま、少し笑って言う。
「剣護が勝つもの・・・絶対」
『天象館』に足を踏み入れる。
しんとした、冷たい空気。
しばらく無言で進み、中央に到達して立ち止まる。
振り返って見ると、肩をすくめて笑う一夜の姿があった。
「初めてだな・・・」
「何が?」
「俺が・・・お前の前を歩いてるってことがさ」
「剣護って・・・変なこと気にしてたんだな」
天を仰いで笑って言う。
『蛍丸』を抜き、構える。
一夜も『大通連』を抜くと、笑顔のまま言った。
「じゃあ・・・始めようか」
「・・・ああ、いいぜ」
ぴりっと空気が凍るような気配。
一夜の顔から笑みが消えた。
最初に仕掛けたのは剣護さんだった。
鋭い金属音が鳴り響き、2人の刀が交わる。
飛び下がると、再度構えなおして間合いを取る。
剣護さんは正眼の構え。
一夜さんは八双の構え。
互いに一足一刀の距離を保ちながら、じりじりと地面を滑るように移動する。
互いに隙がなく、そのまましばらく時間が流れる。
剣護さんの額を汗が流れる。
一夜さんはいつもと変わらない涼しい表情で・・・
でも、目は笑っていない。
ダン!と一歩踏み込んで剣護さんが切り込む。
再び切り結んだ2つの刀はそのまま、鍔迫り合いの形になって止まった。
一夜さんを厳しい目線で見据える剣護さん。
「あいつら・・・何故、『神力』を使わないんだ?」
来斗さんがつぶやく。
「あいつらは・・・『神器遣い』である前に、剣士やからな・・・」
二人から視線を動かすことなく愁さんが言う。
「同じ剣士の右京殿の意見を聞こうか?」
来斗さんが言う。
「・・・すごい」
言葉が見つからず、そこで少し黙ってしまう。
「すごい・・・覇気です。お二人とも・・・本気だと思います」
ちらっと藍さんの様子をうかがう。
みんなの少し後ろで、霞様と二人座り込んで様子を見ている藍さん。
膝を抱えて、厳しい視線で二人を見守っている。
両手は、祈るように抱えた膝の前でしっかりと組まれていた。
刀を交えたまま、両者の力が拮抗して静止する。
両腕に渾身の力を込めているはずなのに、刀は全く微動だにしない。
なんでこいつ・・・こんなに平然としてやがるんだ?
この細い体の一体どこに、こんな力が・・・
「『神力』を、使わないの?」
淡々とした口調で一夜が言う。
「・・・・・・お前こそ!」
「そうだな・・・」
冷たい視線に背筋が寒くなるような感覚を覚える。
笑顔の奥にいつも隠れていた・・・一夜の狂気。
「俺はまだ・・・いいかな」
刀にかかっていた力がふっ、と抜ける。
!?
上体のバランスを崩しかけたところに、下方から一夜の刀が襲う。
「なっ・・・!?」
寸でのところで『蛍丸』で受け止め、今度は刃先を下に向けたまま刀が静止する。
「・・・惜しいな」
「うるせえ!!!」
この調子だとこの勝負、相当な体力勝負になりそうだ。
だが・・・・・・・・・
昨日久々に顔を見たときから思っていたこと。
こうやって至近距離で見れば見るほど、はっきり確信に変わっていく。
こいつ・・・・・・
何でこんなに顔が青白いんだろう?
それに明らかに・・・痩せたみたいな。
昨日藍が言ってた『ちょっとおかしい』って・・・このことか?
「一夜・・・お前」
「何?」
「どっか・・・悪いのか?」
俺の問いかけに眉一つ動かさず、淡々と答える。
「それ・・・勝負に必要なこと?」
言うと同時にすっと刀が引かれ、その瞬間鋭い突きが左肩を襲う。
「うっ!!!」
「ガード甘いよ、剣護」
その言葉が開始の合図のように『大通連』がうねり、ものすごいスピードで次々に繰り出される攻撃。
「!?」
左肩の激痛をこらえながら、必死にその攻撃についていく。
・・・速い。
一瞬の隙にぐっと態勢を低くした一夜の刀が一閃して、横一文字に俺の胴部を切りつける。
「ぐぅっ・・・・・・」
遠くで霞様の小さな悲鳴が聞こえたようだ。
傷を押さえて後退し、再度青眼に構えなおす。
肩と腹部、そんなに深くは入っていないものの血を流している俺とは対照的に、一夜は・・・
着物の袖一つ、乱れる様子はない。
やっぱり・・・こいつは強い。
でも・・・それだけじゃない。
着ていた濃紺のローブを脱ぎ、右京に放った。
「右京!頼んだ」
「わかりました!」
はっきりした明るい声で右京は答えた。
俺の迷いは・・・まだ拭い去れていない。
「・・・よかったの?」
「あんなもん・・・お前との勝負には不要だ!」
勾陣隊隊長として、反逆者と戦うのではない。
これは・・・一夜と俺との勝負だ。
そう、とつぶやくと一夜は八双に構えなおす。
「『神力』・・・使いたくなったらいつでもいいからね」
「んなこと・・・お前に言われるまでもねぇよ!!!」
大きく一つ吼え、気合を入れなおすとぐっと態勢を低くして一夜の懐に飛び込む。
「!?」
『大通連』が大きく反って袈裟懸けに振り下ろされる。
まずい!
ばっと体をひねって、跳躍する。
「喰らえ!」
上空からの一太刀も切って返す刀に止められる。
鋭い金属音。
カウンターにも強い。
純粋に剣術じゃ・・・やっぱり敵わないのか!?
でも、それでも。
「一太刀も浴びせることが出来ねえなんて、情けないだろうがよっ!!!」
「剣護!脇!!」
はっとして刀をひねるとまた激しい金属音がして、両者の刀が激しく噛み合った。
「藍の援護射撃なんて・・・うらやましいじゃない?」
軽口をたたきながらも、相変わらず視線は相手を射殺すような冷たさのままだ。
「剣護!冷静に!落ち着いて!!!」
さっきまであんなに暗い顔で塞ぎこんでいたくせに、黙って見ていられない気分にでもなったのだろう。
「藍うるせーぞ!わかってんだよそんなこと!」
なんだか・・・懐かしい、この感じ。
いつか・・・どこかで。
そう。あれは士官学校の2年の時のことだ。
剣術の演習でクラス対抗の試合があって、俺と藍が同じクラスだったときのこと。
うちのクラスの大将は藍で、俺は副将で。
一夜は別のクラスの大将だった。
うちのクラスは先鋒で結構いいペースで勝ち進んだのだが、当たり前のように一夜に次々にやられてしまい、あっという間に副将の俺の出番となった。
打ち込んでも打ち込んでもかわされてしまい、一本は取られないまでも切り返しの技で細かいポイントを次々と重ねられてしまう。
かぁっと頭に血が上った俺に、藍が外から怒鳴る。
『剣護!!!落ち着きなさい!!!』
『うるせえ!!!』
『うるさいじゃなーい!完全に一夜のペースだよ!?このまんまじゃ・・・』
教官が藍に厳しい表情で注意する。
すみません、とつぶやく藍。
そして、何を思ったか。
隣の試合場に目をやると、ちょうど試合中だった孝志郎さんに満面の笑顔で叫んだのだ。
『孝志郎!頑張ってぇー!!!』
・・・・・・は?
一瞬皆が凍りついた。
同時に、一夜のそれまでの緊張の糸がぷつっと切れたのがわかった。
勢い込んですかさず打ち込む。
『一本!!!』
教官も一夜のクラスの連中も、藍には呆れて何も言えないといった様子。
勝利に歓喜する藍を尻目に、一夜は面も取らずに道場を出て行った。
こうして1年2年と・・・あいつは藍に対して完敗だったということになる。
そうか・・・
あの時の・・・あの様子。
思えばあの時・・・一夜の気持ちに気づいててもおかしくなかったんだよな。
「・・・どうかした?」
「・・・は?」
「急に・・・にやけちゃって」
きょとんとした顔の一夜。
緊張の糸が・・・切れたな。
ふっと笑って言う。
「わりぃ!昔、同じようなことがあったなって・・・」
「ああ・・・学生のときのこと?もしかして・・・」
こいつは不真面目の塊みたいな性格だが。
こと剣術に関しては生真面目以外の何者でもない。
そんなことまで・・・しばらく会わない間にすっかり忘れていた。
『蛍丸』を一度鞘に収めて、パン!と両手で頬を叩いて気合を入れなおす。
「さぁ、再開すっか!?」
目つきがだんだんもとの厳しい目つきに戻っていく一夜。
「ところで、お前いつから藍のこと好きだったんだよ?」
「・・・えっ?」
びっくりしたような表情の一夜にぐっと近づいて『蛍丸』を抜く。
刀はまた交わるが、さっきほどの重さはない。
「水臭いんじゃねーの、俺にも言わねえとかさっ」
「別に・・・隠してたわけじゃないけど」
「そうだなぁ、今思えば何で気づかなかったんだろうな?いっつもいっつも藍に付きまとってたもんな、お前って」
そんなことを言いながら、軽快に刀を繰り出す。
そんな俺の目をじっと睨みつけて、一夜が言う。
「俺・・・剣護に今まで女関係の話、したことあったか?」
「ま、そう言われてみりゃ・・・そうだな」
劣勢になってきたその時。
「私・・・ある程度は把握してると思う」
刀を交えたまま、ぎょっとして二人でほぼ同時に藍を見つめる。
「女の子の方からの情報・・・だけど」
「・・・そ・・・・・・そうなんだ」
・・・・・・・・・不憫な奴・・・
「お前ら真面目にやらへんのやったら僕が相手になるで!!!???」
激怒した愁の怒鳴り声が聞こえてくる。
見ると、来斗と右京と龍介はゲラゲラ笑っている。大きく目を見開いて固まっている霞様。
その時。
『巴』
低い声が聞こえて、腹部に大きな気圧の塊が飛び込んできた。
思い切り吹っ飛ばされて向こう側の壁に叩きつけられる。
「ううう・・・・・・」
じっと俺を見据えている一夜。
「ちょっと・・・調子に乗りすぎたかな?」
「いや、ちょうどいい趣向だったんじゃないかな」
一夜の周囲を白い光が取り巻き、『大通連』が白く眩しく光る。
「じゃあ、小休止を挟んだところで第2ラウンド・・・と行こうか」
ちょっとだけ口の端を上げて笑顔を作ると、一夜が言った。
剣護と一夜は一度も喧嘩したことがない、というのが二人の公式の見解だが。
俺の知る中ではたった一度だけだが、ある。
それは一夜が勾陣の隊長になったばかりの時のこと。
完全に剣護を当てにしている様子の一夜に、剣護が爆発したことがあるのだ。
まだ大学校の学生だった俺はたまたま勾陣隊舎の近くを通りかかり、聞こえてきた剣護の怒鳴り声に足を止めた。
『もう我慢できねえ!俺は金輪際っ!お前のパシリはやんねーからな!』
『それ・・・伍長降りるってこと?』
『そこまでは言わねえけど・・・伍長の仕事以上のことはやんねーっつってんの!』
隊長業務に関するマニュアルは、それはそれは厚いものである。
一夜が投げたくなる気持ちもわからないではないのだが・・・
『大体なぁ、隊長になったのはお前の勝手だし、俺を伍長にっつーのも言ってみりゃほとんどお前の勝手じゃねえか。自分の行動の責任は自分で取れ!』
一夜をびしっと指差して強い口調で言う剣護に、いつもなら笑って謝る一夜が意外にも
『わかった・・・いいよ』
とつぶやいたのだ。
『えっ!?』
拍子抜けした様子の剣護に、にっこり笑って一夜が言う。
『お前の言うとおりだと思う。自分の責任は自分で取るよ、それでいいだろ?』
顔は笑顔だが・・・
声は明らかに、怒っている。
『おい、一夜?』
『じゃーね、剣護』
背中越しにひらひら手を振りながら去っていった一夜。
しかし、あいつは殊勝に努力する気なんかかけらほどもなく、
『藍いる?』
数日後、大学校の図書館にマニュアルを抱えてやってくると、満面の笑顔で藍に尋ねた。
『隊長の仕事ってさ・・・興味ない!?』
好奇心の塊のような藍が、きらきらした目で頷くのは誰の予想にも明らかなことだった。
こうして藍にマニュアルを覚えこませ、困ったら聞くという手段に出たのである。
もしかしたら・・・『やってみたくない?』とか言って、手伝わせていたかもしれない。
本当にちゃっかりしてるというか、悪知恵が働くというか・・・
そんなことをして一ヶ月ほど経ったときのこと。
一夜が旧隊長派の隊士にリンチに遭った、という情報が飛び込んできた。
驚いて藍と現場に駆けつけると・・・
何のことはない。
『何!?二人とも心配して来てくれたんだ』
そこには滅多打ちにされた隊士達と、返り血を浴びて笑顔で言う一夜の姿。
傍では第一発見者だという風牙が呆然と立ち尽くしていた。
そこに血相を変えて飛び込んできた剣護。
『一夜!お前・・・』
『あ、剣護お帰り。早かったね』
がっくり肩を落として、ぽんっと一夜の肩に手を置く剣護。
『お前なぁぁぁ・・・・・・心配させんなよ!?』
『ごめんごめん。でも俺が仕掛けたわけじゃないからね』
『そうなのかもしんねえけど・・・ドンパチやる前に無線でもなんでも俺を呼べよ・・・』
俺とお前は運命共同体なんだから。
その時剣護はそう言ってしまったのである。
してやったりという顔で、一夜が言う。
『剣護は・・・責任は自分で取れって言ったろ?』
はっとして、うな垂れる剣護。
『俺が・・・悪かったよ・・・・・・』
「運命共同体・・・」
つぶやくと横で右京が尋ねる。
「それ・・・あの二人のことですか?」
頷くと、つらそうな顔で右京が言う。
「本当は・・・見ちゃいられないです。でも・・・」
少し間があって、きっぱりとした口調で言った。
「見届けてあげなくては、と思います」
『蛍丸』を構えて、『神力』を集中させる。
刀身が水を帯びて青く光る。
『水刃』!!!
襲い掛かる水の刃を一夜は『小通連』でかわす。
『疾風』
かまいたちのような風が水の刃を弾き飛ばす。
くそっ・・・なんで触れることすら出来ないんだ!?
『水刃』!!!
『疾風』
また弾かれるが、それと同時にダッシュして間合いをぐっと詰める。
もう一発だ!
『水刃』!
えぐるように一夜の腹部を貫く水の刃。
「うっ!」
当たった!
傷口を押さえてうずくまる一夜。
薄藍色の着物がみるみる血で染まっていく。
やっぱり・・・明らかに以前とすると体力がないような。
躊躇する俺の様子に気づいた様子で怒鳴る。
「どうした、行くぞ!!!」
素早く刀を持ち換えると唱えた。
『巴』!!!
「!」
ふいを付かれて近距離での直撃を受ける。
ミシミシっと肋骨にヒビが入るような感覚。
すかさず刀を持ち換え、一夜が叫ぶ。
『神風』!!!
『小通連』からものすごい竜巻が巻き起こり、抵抗する間もなく上空に巻き上げられる。
風は鋭く俺の体を切り刻む。
「ぐぅっ・・・・・・!!!」
一夜はその小太刀を大きく振り上げ、思い切り振り下ろす。
竜巻が俺の体もろとも鋭く壁の高いところにぶつかり、俺はそのまま床に叩きつけられた。周囲の床がみるみる血に染まっていく。
がくがくする膝でなんとか立ち上がり、様子をうかがう。
一夜は・・・
袖で口を覆い、激しく咳き込んでいた。
『飛泉漱玉』!!!
叫ぶと『蛍丸』が青く光り、地面に幾つもの水柱が上がる。
その一つが一夜に襲い掛かり。
一夜は袖で口元を押さえたまま『大通連』を地面に向けて唱える。
『烏帽子』
水柱はその気圧に弾かれ、一夜の周囲に飛散していく。
「まだまだぁ!!!」
また間合いを詰めると刀を構え、唱える。
『水刃』!!!
かっと目を見開く一夜。
『大通連』を向けるが・・・間に合わない。
水の刃が一夜を切り刻む。
「う・・・」
ふらっと、床に倒れこむ一夜。
がくっと、俺も膝から崩れ落ちる。
ふと見ると、一夜の着物の袖に血がにじんでいる。
これは・・・怪我の血じゃない?
「一夜・・・お前!?」
「言うな!!!」
『巴』!
『大通連』から放たれた波動に押しつぶされ、またミシミシ・・・と骨がきしむ。
一夜の体が白い光に包まれる。
ぐっと俺のほうを見据えて『小通連』を構えると唱えた。
『神風』!!!
さっきよりも更に大きな竜巻。
ものすごい音がして、全身がその大きなかまいたちの塊のような風に切り刻まれる。
「行け!!!」
一夜が『小通連』を突きの要領で俺に向けると、風が一気に同じ方向から吹きつけ、針のように全身に突き刺さった。
「うっ!!!」
そして最後に、ずんっと重い風にあおられ、また床に叩きつけられる。
また激しく咳き込みながら、倒れた俺を見下ろす一夜。
「やっぱり・・・・・・甘い・・・よ・・・剣護」
咳き込みながら苦しそうに続ける。
「俺を・・・・・・斬るんじゃ・・・・・・なかったの?」
全身の傷から流れる血で、俺の周囲の床は真っ赤に染まっている。
こいつ・・・明らかにおかしい。
けど・・・・・・
それでもやっぱり・・・強い。
仰向けに倒れた俺の目の前で『大通連』がキラッと光る。
「なぁ・・・・・・こんなもんじゃ・・・・・・ないだろ?」
激しく咳き込んで、袖で口元を拭う。
血に染まった袖口。
一夜は・・・喀血していた。
青白い顔で、無表情のまま続けて言う。
「俺を・・・失望させないでくれよ」
それは、1年ほど前のこと。
まだ一夜が勾陣の隊長だった頃のことだ。
隊士達は見回りで皆捌けていて、隊舎には2人だけが残っていた。
発作的に小さく咳を続けている一夜に、ちょっと心配になって声をかけた。
『お前、風邪か?』
苦しそうにちょっと涙目になって、大丈夫、と答える一夜。
『俺・・・喘息持ちなの、もともと』
『そうなのかぁ?だって・・・今まで』
『ガキの頃はひどかったんだって。最近落ち着いてたんだけどなぁ・・・』
そういやこいつ、ガキん時はすごく病弱だったって・・・
『ちゃんと・・・病院行けよ?』
『・・・やだよ』
『何言ってんだよ!?ひどくなったら大変じゃねえか』
『大丈夫大丈夫。一生付き合ってかないといけないらしいからね、ほっときゃいいんだよ』
それ以降あまり咳き込む姿も見なかったので、そんなことはすっかり忘れていた。
その後半年ほどして孝志郎の事件が起こったのだったが・・・・・・
喘息なんかじゃ・・・なかったんじゃねえか。
だから・・・ちゃんと病院行けって・・・
でも・・・
ようやくわかった。
全部・・・繋がった。
『蛍丸』を強く強く握り締める。
「うおぉぉぉぉぉぉ!!!!!」
全身の力を振り絞る。
後ろに跳び下がって一夜が刀を抜く。
三番刀・・・『顕明連』。
刀身は黄色いまぶしい光を帯び、一夜の周りにも光のベールが現れる。
俺の周囲には、濃い青い光が立ち上る。
その澄み切った色と澄み切ったオーラに、少しだけ傷が癒されるような感覚に陥る。
『蛍丸』を構える。
「行くぞ・・・一夜」
俺が・・・・・・留めを刺してやる。
一瞬早く、一夜が刀を構えて唱える。
『明光』
幾重にも折り重なった光の筋が、鋭い刃となって俺に向かってくる。
目を閉じて・・・唱える。
『禊祓』
『蛍丸』から青い光がほとばしり、黄色い光の筋と激しくぶつかり合う。
周囲は眩しく光り輝き。
目がくらみそうになるのをこらえて神経を集中させる。
両者の光はぶつかり合い、拮抗したまま動かない。
「!」
「ううう・・・・・・」
がたがたと『蛍丸』を握り締める腕が震えてくる。
「負けられ・・・ねえ」
苦痛に耐えるような表情で、歯を食いしばって『顕明連』を構えている一夜が目に写る。
「俺は・・・あいつを・・・・・・」
子供の頃。
道場に通い始めて1週間にして、一夜はぱたっと姿を見せなくなった。
『あいつ・・・やっぱ冷やかしだったんじゃねえの?』
『なぁ』
みんなちょっと安心したような様子でそんなことを噂しあっていた。
そんなある日。
『剣護!ちょっと』
師匠に呼ばれて庭に行くと、思いがけないことを頼まれた。
『一夜のところに、様子見に行ってきてくれないかな?』
『えええーーー!?なんで俺が!?』
『僕が行ってもいいんだけど・・・きっと剣護が行ったほうがいいと思うんだ』
優しい笑みを浮かべて言う師匠に嫌とは言えず、その日の帰り道、俺は一夜の家を訪ねることになった。
豪邸の立ち並ぶ中でも、古泉邸は遠めに見てすぐわかるくらいの豪奢な建物である。
やっぱ・・・帰ろうかな。
そう思って門の前を見ると、一夜がぽつん、と一人で座っていた。
『・・・一夜?』
俺の声にびっくりした様子で顔を上げると、ゆっくりと微笑む。
『剣護・・・久しぶり』
『どうしたんだ?最近・・・姿見せねえからって・・・・・・師匠が』
『お袋が死んだんだ』
さらっと言う一夜に、絶句して立ち尽くす俺。
『もう・・・1年くらい入院したり、退院したりしてたんだけどさ・・・やっぱ駄目だったって』
淡々と言う一夜に、恐る恐る尋ねる。
『師匠は・・・知ってるのか?』
『知ってると思うよ。うちの誰かが連絡したと思う』
だから・・・俺にって言ったのか、師匠。
でも・・・だからって何て言って慰めたらいいかなんて皆目見当が付かず、
『大丈夫か?』
そう聞くのがやっとだった。
『うん!なんとなく覚悟はしてたし・・・それに』
地面に視線を落としたままあいつは言った。
『母さんと約束したから・・・もう泣かないって』
黙ってその横顔をみつめる。
一夜は笑ってつぶやく。
『母さんのための涙はもう・・・母さんが生きてるときに全部流しちゃったからね』
『一夜!!!』
俺は一夜の前にしゃがみこむと、両手を握り締めて言った。
『お袋さんの葬式とか・・・全部終わったら絶対道場来いよ!』
大きな瞳を大きく見開いて、俺を見つめる一夜。
『俺・・・待ってるからな!!!』
またゆっくりと笑顔になって言った。
『楽しみにしてるよ。・・・ありがとな、剣護』
お前の生き方に・・・
俺がきっちり、落とし前をつけてやる。
俺とお前は・・・運命共同体なんだから。
「うおおおおおーーーー!!!!!!!」
全ての『神力』を集中させる。
『剣護・・・』
久しぶりに聞く透明な声。
「『蛍丸』!!!俺に・・・力を!!!」
『・・・心得た』
周囲が濃い青い光に包まれ。
青い光は『顕明連』の光を吹き飛ばし、一夜の体を包んだ。
そして、細かい光の粒子になって光が消えると。
どさっと、一夜が床に倒れこんだ。
「一夜!!!」
藍が弾かれたように走りだし、一夜に駆け寄る。
他の皆も続く。
俺も・・・
と思った瞬間、出血と『神力』の使いすぎで一瞬意識が遠ざかる。
地面に崩れ落ちる、と思った俺の体を誰かの腕が支えてくれていた。
「大丈夫か?剣護・・・」
「来斗・・・さんきゅ」
「よくやったな」
「ああ・・・それより」
一夜のことを伝えなければ、と思ったとき。
一夜がまた、激しく咳き込んだ。
「大丈夫!?」
藍が膝に一夜を抱きかかえ、背中をさする。
そして、すごい形相で小さく悲鳴を上げた。
「一夜!この傷・・・・・・」
見ると、俺が付けた傷のほかに、わき腹に深い刺し傷。
そこからどくどくと血が流れている。
「お前っ・・・」
いけね、とつぶやく一夜。
「傷口・・・開いちゃったかな・・・・・・」
「俺・・・宇治原さん、呼んでくる!!!」
龍介が言って、『天象館』を飛び出していく。
「無駄かもしれない・・・けど」
つぶやく一夜に愁が怒鳴る。
「お前なぁ!何でそないなこと・・・」
「俺・・・肺病なんだよ」
皆言葉に詰まってしまう。
「ガキの頃亡くなった・・・お袋と同じ病気なんだ。あの化け物の力で・・・少しは持ってたみたいだけど、多分・・・もう・・・・・・」
「一夜さん!!!」
右京が泣きながら一夜にすがる。
「何で!?何故なんですか!?何故もっと早く・・・」
「だから俺・・・右京に言ったろ?『忘れ物を取りに来た』って」
目を見開いて右京は一夜を見つめる。
「死ぬ時は・・・剣護の手にかかって死にたいって・・・そう思ってた」
それに、とつぶやいて震える手を伸ばし、藍の頬に触れた。
「藍にもう一度・・・会いたかったんだ」
藍は一度うつむいて絶望しきったような顔をした後。
意を決したように顔を上げた。
「一夜・・・」
その顔は・・・これまでに見たことのない、優しい笑顔だった。
苦痛で滲む一夜の額の汗を拭いながら、出来るだけ優しく語り掛ける。
「私の・・・勝ちね?」
「何の・・・ことだったかな?」
「も〜・・・約束したでしょ?」
ふふ、とちょっと笑って、また小さくうめき声を上げる。
髪を撫でながら言う。
「まずは、ちゃんと病院に行くこと」
「そう・・・だったね」
それから?とささやくような声で尋ねる。
にっこり笑って答える。
「これからもずっと・・・一緒にいてね」
驚いた顔で私を見つめる一夜。
「もう・・・どこへも行かないで」
青い綺麗な目から、涙が溢れる。
「俺の望み・・・なんだったと思う?」
なあに、と優しく尋ねる。
「ずっと・・・一緒にいて欲しいって・・・だから」
目を細めて笑う。
「賭けの意味なかったな、これじゃ」
来斗を小さな声で呼ぶ一夜。
「色々ありがと・・・お前と友達になれて・・・本当によかった」
「俺もだ・・・お前の穏やかさに・・・いつも救われていたよ」
次に右京を呼ぶ。
「一夜さん!そんな・・・遺言みたいなこと・・・・・・止めてください」
涙を流しながら言う右京の髪に手をやって、笑って言う。
「俺羨ましかったよ、お前のそういう・・・真っ直ぐなところ」
ちらっと霞様のほうを見て、言う。
「霞様と霧江様を・・・頼むね。俺たちは・・・2人のナイトだったんだから」
はい、とはっきりと返事をする右京。
愁はこわばった顔で一夜の傍らにしゃがみこんだ。
「愁・・・ごめんな」
「何の・・・ことやったかな?」
何でもないよ、と笑ってつぶやく一夜。
「藍のこと・・・・・・任せたからね」
愁ははっとした顔をして一瞬辛そうな顔でうつむいた後、顔を上げて笑って言った。
「ああ・・・安心し」
藍。
一夜の優しい声。
気づいたら私はぼろぼろ泣いていた。
「・・・死なないで」
言っちゃ駄目だ・・・
でも・・・・・・言わずにいられなかった。
「約束したばっかりでしょ?どこにも行かないって・・・」
微笑む一夜。
「俺・・・好きだったんだ、お前のこと」
「一夜・・・・・・」
「初めて会ったときから・・・・・・ずっと、好きだった」
「私も・・・・・・好きよ?あなたのこと」
みんな静かに私たちを見守っている。
「私も・・・ずっとずっと、一夜のこと好きだったわ・・・・・・」
言葉が次から次から溢れてくる。
「あなたいっつもいっつも・・・いい恋しろって言ってたのに・・・・・・あなたがいなくなったら私・・・」
「藍はまだいくらでも・・・出来るよ。人を愛して、その人の子供産んでさ・・・幸せになって欲しい。でも・・・・・・」
にっこり笑って言う。
「忘れないで、俺のこと」
「・・・・・・一夜?」
「一年に一回でも、十年に一回でもいいから・・・思い出してね。俺のこと」
流れる涙をぐっと拭って・・・にっこり笑って言った。
一夜がちゃんと・・・安心して眠れるように。
「・・・・・・分かった。約束する」
剣護、と一夜が呼ぶ。
「痛い思いさせて悪かった」
「何言ってんだよ?・・・お互い様だ」
「ありがとう・・・分かってくれて」
「今までどんだけ・・・一緒にいたと思ってんだよ?」
「そう・・・だな」
笑って言う。
「勾陣・・・頼むね」
「それはもう・・・前に聞いたよ」
「俺・・・お前に会えて本当に良かった」
「一夜!俺も・・・」
涙を堪えながら言う。
「お前がいつも・・・俺の前を歩いててくれたからここまで来れたんだ・・・お前が導いてくれなかったら俺・・・こんな生き方してなかったと思う。お前がいてくれたおかげで」
みんなを見渡して言う。
「こんなに・・・素晴らしい仲間にも出会うことが出来たんだ。ありがとな、一夜」
穏やかに笑う一夜。
「お願いが・・・あるんだけど」
剣護さんは一夜さんを抱えて外に出る。
まぶしい月明かりの中、儚い薄紅色の花びらが零れ落ちんばかりに咲いていた。
「満開・・・ね」
藍さんがつぶやく。
「一夜・・・見えるか?」
剣護さんが耳元で言うと、うっすらと目を開けて、微笑む。
「本当だ・・・満開だね・・・・・・桜」
ひらひら散る花びらに手を伸ばす。
「西行法師か・・・・・・」
藍さんが笑って言う。
「満月はちょっと・・・過ぎちゃったけどね」
一夜さんがつぶやく。
「今日は・・・楽しかったな」
桜の花びらを見つめて言う。
「大事な人たちに会って・・・懐かしい話も出来た・・・剣護とも決着つけられたし・・・本当に」
ふうっと一つ大きなため息をつくと、つぶやいた。
「いい・・・一日だった」
伸ばした手がすとん、と落ちる。
「・・・一夜?」
藍さんが両肩を掴んで、呼びかける。
「一夜・・・」
一夜さんはいつもの・・・穏やかな笑顔のまま。
まるで・・・眠っているみたいだ。
「・・・一夜!」
藍さんは一夜さんを抱きしめて、声を上げて泣いた。
そんな二人の姿が涙に滲んで見えなくなる。
『西行法師って・・・知ってる?』
僕が紺青に来たばかりの頃、ちょうど一年ほど前も桜が咲いていた。
勾陣の庭を眺めながら、一夜さんが言っていた。
『何ですか?それ・・・』
『“願わくは花の下にて春死なん その如月の望月の頃”って』
楽しそうに笑って僕の顔を見る。
『いいよね、そういうの』
そして、桜を見上げるとすがすがしい表情で言った。
『俺も死ぬときは・・・そういう風に死ねたらいいな』
こぼれんばかりに咲き乱れる桜、
まだ満月に近い明るい月明かり。
それは、静かに眠る一夜さんに・・・
本当に、よく似合っていた。