葦塔婆(あしとば)
参
場所 玉堤
時間 8月中旬 午前10時
遭遇者 森野 紀子(36才)
妖怪 葦塔婆
猛暑が続いていた。日中、カーテンが閉まっていることを不審に思う人がいても、暑さ対策と言い逃れができるだろう。紀子は、自分の体に覆いかぶさっている男の汗が気になっていた。案外、気が付いていないだけで、汗の匂いは残るのかもしれない。彼が帰ったら窓を開けて空気を入れ替えよう、それに、もう夕食の買い物にも行かないと・・・紀子の心は事後の段取りで一杯になっている。男の肌は汗を弾いている。今覆いかぶさっている男がまだ20代だということを強く認識する。男の背中に回した自分の腕を見る。エステで磨きあげているだけあって、20代の頃よりも白く輝いているように見える。まだまだ、大丈夫。紀子は大げさに嬌声を上げて、男にしがみつく。
「お母さん・・・」
そういって男が果てた時、紀子はホッと息を付いた。
ことが終わると男は、そそくさと帰り支度を始めた。
「先生・・・慶介のことですけど・・・」
「大丈夫ですよ。何とかします」
紀子は閉じたカーテンの隙間を伺う。幹線道路に面して建築されたマンションの7階。窓から見えるのは、向かいのビルしかない。それでもカーテンを閉めるのは、後ろめたさがあるからだ。一人息子の慶介は、数駅先の多摩川園までチームで向かい、野球の試合をしている。まだ試合は始まったばかりだ。進んでいても3回裏の攻防だろう。その後のあれこれを考えると息子が戻ってくるまでには2時間ぐらいの余裕がある。紀子は栗色に染めた髪を手櫛で整えながら、時計を見やる。男は帰り支度を終えていた。
担任の教師と不貞関係になったのは、つい最近だ。慶介が学校で受けているいじめについて相談しているうちに、早川が持つ邪念に気がついた。早川の視線は常に紀子の胸元や素足に向かっているのだ。20代の教師が36才の紀子に欲情しているのは、意外だった。
しかし、この人は私を抱きたいのかもしれない、そう考えた時、この男を味方につければ、慶介へのいじめも収まるのでは、と考えるようになった。
誘惑したのは、紀子だ。家庭訪問にやってきた教師は、玄関に紀子が鍵を閉めたときに分かったと言う。二人が同じ気持ちを持っていることに。
「次はいつ・・・」
紀子は甘えた声を出して、同じぐらいの身長を持つ男の背中に抱きついた。男をつなぎ止めておけば、学校で慶介がいじめられることないはずだ。実際、慶介が青あざを作って帰ってくることはなくなっている。
「クックッ…次ねぇ」
男は、教師らしくない下卑た笑い声とともに、抱きついた紀子をベッドに押し倒す。若い教師は、猪首で骨ばった顔を持っていた。手足も短く、ごつごつと骨ばっている。華奢な紀子を抑えつけることなど容易だ。
「お母さん、野球のコーチとも寝てるでしょ。びっくりしました、細かなところまで同じだから。声を出すタイミングや服の脱ぎ方、誘い方・・・」
男は笑いながら、紀子の両腕を右手で押さえると、シーツの端を使ってベッドの端に結びつけた。
「慶介君がいじめられるのは、お母さんが淫乱だからですよ。自業自得って書けますか?」
男は再び、服を脱ぎ始めた。
「もう、繕うのはお互い止めましょう。あなたは淫乱だから僕と寝てるんです。慶介君のためじゃない。そうでしょう。」
男は、手にしたタオルで紀子の口を塞いだ。
「いつも気のない交わりばかりではね・・・お母さんも満足できないでしょう」
男はかばんを持っている。
「たまには変わったことをしましょう。ね、お母さん。いろいろ用意してきたんです」
子どもに向かい合うときと同じさわやかな表情で、男は紀子に笑いかけた。
紀子は、多摩川の遊歩道を歩いている。玉堤は桜の名所だ。毎年、家族で桜を見に来ている。来年は・・・と思うと紀子の心は重くなる。
来年、私はいない。なぜなら、あの子を殺して、全てを清算して私も死ぬから。切れ長の瞳と不自然なほど伸びた手足を持つあの子が、なぜ慶介をいじめるのか、理由は分からない。成績もよく顔立ちもよいあの子は女子に人気がある。父親は飲食店を経営していて、収入も十分にあった。それに比べると慶介は親から見ても平凡な子だ。
紀子が教師やコーチと関係を持ったのは、いじめがエスカレートしてからだ。少しでもわが子を救おうと体を投げ出したのに。男たちは私を笑っていた。私だけでなく、淫乱な母親を持つ子として慶介のことも笑っていた。
「殺してやる、みんな殺してやる」
台所から持ち出した包丁は右肩にかけたバックに中に入っている。バックを持つ右手には縛られた跡がしっかりと残っていた。バックを抱える胸元にも無数の傷が付いている。まず、あの子を殺す。そのあとで、コーチを殺して、それから教師を殺す。できるかしら・・・。紀子は、必死に考える。途中でつかまっちゃ駄目。まず、あの子を殺して・・・。
ふらふら歩く紀子は、川辺の葦がいつのまにか迫ってきていることに気がつかない。突然、紀子は何かにけつまずく。足元の土が隆起して、目の前が暗くなった。
「口惜しいだろうね」
先ほどまで広がっていた青空は消え、いつのまにか曇天になっている。紀子は緑の覆いに囲まれていた。仄かに色が付いた霞のような空気から声がする。
「お前が殺すことはないよ。私が殺ってあげよう」
声とともに靄が揺れ、紀子を包む緑の壁も揺れる。壁と思ったものは、密集して生育する葦のようだ。
「わしは人形を食らうのだよ。人形を持っておいで。変わりに呪ってあげよう。男の体液をつけておいで。お前なら難なくできるだろう」
葦が蠢き、茎を揺らせて紀子の体に巻きつく。腕や胸についていた痣に葦が触れる。
「わしにはいろいろな力がある。難なくできるよ、呪い殺すぐらいね」
すーっと、青空が戻ってくる。それまで消えていた暑さが紀子を覆った。葦は静かに風に揺れている。ふと手を見ると、縛られた跡が消えている。
「夢・・・?」
目の前には多摩川が流れている。慶介が試合をしている会場まで、あとわずかだ。紀子はかばんの中を探った。包丁に触る。しかし、手触りがおかしい。かばんから出してみると、包丁は錆び、刃がボロボロと欠けていった。
「本当・・・本当なの?」
紀子はその場にしゃがみこんだ。わたしは何と出会ったのだろうか。先ほどのあれは、わたしと慶介を救ってくれるのだろうか。
夏休みもあと数日というある日、多摩川で事件が起こる。川遊びをしていた小学生が溺れ、助けに入った少年野球コーチと共に溺死したのだ。河川敷で少年野球チームは夏練習の打ち上げも兼ねてバーベキュー大会を行っていた。子どもだけでなく保護者も多く参加している。浅瀬での水遊びは例年の恒例だった。最初に溺れたのは、小柄な男の子だった。足を滑らせたのか、あっという間に水中に沈み、皆が見たときには腕だけが水面から出ていた。美貌の母親は、「慶介!」と叫びながら、日傘を放り投げて川に走りこんでいったという。数人の保護者で男の子を岸辺に引きずりあげ、人工呼吸をしているときに、川の深みに他にも子どもがいることが分かった。その子を救うために川に飛び込んだのは、近くにいた野球コーチだ。二人はそのまま川に流され、葦の茂みで体が発見されたのは翌日になってからだ。
数日後。
深夜、紀子は多摩川に来ていた。川辺に近づき水に足を浸している。地面が蠢き、淡い霞のような闇が紀子を包み込んだ。
「なぜ、慶介まで巻き添えに・・・」
「生きているのだろう、お前の子どもは」
蠢く土から声がする。
「ええ。でも、心が消えてしまったわ。意識が戻っても、前の慶介じゃない。夢のなかで暮らしているのよ、あの子。自分が誰だかも分からなくて・・・ねえ、なぜ!」
紀子は狂ったように叫んでいる。物の怪の声が聞こえる葦を両手で引きちぎる。
「なぜなの?」
「あの子のためだよ。あの子は、母親が同級生を誘惑したのを知っている。自分をいじめている子と寝たのをね。聞かされたのだよ。秘め事がどのようになされて、どのように誘惑され、どのような形で交わったのか。心が壊れかけていたからね、少し眠らせたのだよ。全てが終わるまでね。いいかい、お前は人形を持ってくるのだよ。いいね。まだまだ足りない。足りることはないけれどね。でも、いつまでも続くことではない。すぐにお前に変わる女がやってくる。恨みを秘める女は多いからね。次の女が見つかれば、お前の役目も終わる。息子の心はその時、返してあげよう。いらない気持ちを消してね。全てが終われば、お前には良いことばかりになる。心配はいらないよ」
紀子は、がむしゃらに葦を抜いた場所に横たわる。
「慶介は死のうとしたの?」
「さあね、わしが全てを操るわけではないよ」
紀子は月明かりに腕をかざして見る。皮膚が光を吸い込み、妖艶に光輝く。人形を渡すたびに、体に変化があるのはなぜだろう。
「役目が終わった時、私は人間でいられるの?」
結局、わたしのしたことは慶介のためにならなかった。慶介を追い詰めただけ。
「人で終わるかは、お前次第」
風が声を運んでくる。
紀子は、人型の人形を胸元から取り出した。
「教師のよ、私を弄んだ・・・でも、これで終わり・・・じゃないのね。」
葦が揺れて、人型を葉先が包み、風と共にどこかへ運んでゆく。紀子は、その瞬間、また、自分の肌が透き通るのを感じた。
葦塔婆
人形を食べる妖怪。男の体液を吸って体を増殖させる。葦塔婆に体液を吸われた男は、心を奪われ、異のままに動くことになる。実態はなく、常は湿った土に中にいる。




