蟲童(こわらべ)
ずいぶん前に書いた話が出てきました。
懐かしい。
壱
場所 田園調布交差点
時間 10月下旬 午後6時から
遭遇者 山下康彦(26才)
妖怪 蟲童
「やすちゃん、どこいくの?」
既に日が暮れた路地で若い母親が子を呼ぶ声がした。母親と思ったのは、声の方を見やった時に、大きな座席がついた電動自転車が数台見えたからだ。幾つかの自転車は後部に子どもを乗せているようだ。田園調布という場所柄なのか、今は何処の地域でもそうなのかは分からないが、子どもを持つ母親は1台10万円以上する自転車を皆、当たり前のように持っている。
「こっちよ」
再び、若い母親の抑揚のない声が聞こえた。母親は暗闇のなかに紛れてしまった子どもを呼んでいる。時折、電灯に照らされて、路地を縦横に走り回る男の子の姿が見えた。母親の声に緊迫感がないのは、いつものことだからなのだろう。いうことを聞かない子どもに母親は諦めを持っているようだ。康彦は苦笑した。思えば、俺も同じような子どもだった。
いま思えば、この声が入り口だったのかと思う。
その日、康彦は定時に帰社した。池上線の雪谷大塚駅で下車したのは、5時半ごろだ。この街に住んで3年になる。就職した時に引っ越してきた。田園調布に隣接する地域であるのに、家賃も手ごろだった。駅から出ると、最寄りのスーパー、「オオゼキ」へと向かうのが習慣となっている。自炊している康彦は、特売品や値段の下がった刺身や肉を購入して帰宅する。スーパーの前には特売の桃が山済みされている。そういえば、亡くなった母が桃を好んでいた。康彦はばかばかしく安くなって桃を手にとり買い物籠に入れると、惣菜売り場に向かった。康彦の足が止まる。目の前にいる背を向けた女性が、亜美に似ているのだ。ゆったりとしたワンピースにフラットな靴の後姿は、ショートの髪形といい、昨夜あった亜美そのものだった。もし亜美であれば、ここで修羅場になってしまう。康彦は買い物籠を除く。熟しすぎた桃を元あった場所に戻すには気が引けた。俺の指のあとが付きそうだ。康彦は、そのまま桃のみを購入して店を出た。
もと来た道を戻り、線路を渡ると中原街道に出る。片側2車線の道路には広い歩道がある。走ってくる自転車とカートを押して歩く老人、塾へと向かう小学生の間を縫うように歩く。多摩川に向かって歩いていくと、大きな交差点の向こうに弁当屋が見えた。向かいには、田園調布警察署がある。6時に閉店する弁当屋で日替わり弁当を購入して、康彦はフッと息を継いだ。
「亜美がここにいるはず無いのに・・・」
亜実は池袋に住んでいた。
「便利な場所なの。だから、山手線から外には滅多に行かないわ。」彼女の口癖だった。昨日の別れ方に後悔があるから、ここに亜美がいると錯覚してしまうのかもしれない。日が落ちて急に冷たくなった風を感じながら、康彦は弁当屋の脇道を右に曲がった。交通量の多い表通りから少し入っただけで、町の空気が変わる。電灯も少なくなり車の騒音も遠ざかる。
「やすちゃん、どこいくの?」
声が聞こえてきたのは、この時だ。
6時前のこの時間、既に日が暮れているのに母子がいるのは、近くに乳幼児が遊べる児童館があるからだろう。そこからは、次々に大きな自転車を押した数人の若い母親が出てきた。暗闇のなか、数人の子どもが道を縦横している。
「やすちゃん、どこいくの?こっちよ」
母親が集団から離れて走り出した子どもを呼んでいる。
そういえば―。
「俺も、小さな頃、やすちゃんと呼ばれていた・・・」
こんな闇のなかで、子どもの手をとらないなんて、攫われるんじゃないか。そう考えた康彦は、つい、子どもが進んだほうに足を向けた。普段なら通らない路地だ。ふいに強い風が吹き、手にしたスーパーの袋が風に舞った。桃がころころと転がっていく。坂道を数歩、桃を追いかけて進むと、闇が濃くなった。
目の前に子どもがいる。やすちゃんと呼ばれた子どもだろうか、康彦が声をかけようとした瞬間、子どもは無数の小さな蟻に変わった。
「桃、好物なんだよ」
陽炎のように輪郭だけとなった子どもが笑いながら、康彦に語りかける。蟻の群れは転がる桃を追いかけている。桃はすぐ目の前にある。康彦が慌てて桃に手を伸ばした時、世界は反転した。
「大丈夫ですか?」
目を覚ました康彦がいるのは、畳の部屋だ。部屋を見回すと窓から月光に照らされた木々が見える。
「桜坂の途中で気を失っていたんですよ。うちの目の前で。警察を呼ぼうかとも思ったの。でも、大丈夫っておっしゃったから」
目の前にいるのは、10代後半に見える若い娘だ。
「俺が・・・大丈夫と?」
「そうよ」
娘は語尾を軽く上げて話す。
「それに、お弁当持ってたでしょ。ごめんね。あれ、あたし、食べちゃったの」
くすくす笑う。とたんに少女の顔が婀娜っぽく変わった。
「他に、何を持ってるの?」
「いや、桃があったけど・・・」
「桃?転がってた桃?あれ、食べちゃった」
娘は、また、笑う。
「まだ、あなたは持ってるのよ、いろいろ。それを頂戴」
10代に見えていた声の調子が少しくぐもり、目元がほんのり赤く染まった。訳知りの女の顔に変わっている。
「あたしぃ、買えるのよ。売り物なの」
娘は、康彦の指を取って、自分の口元に運ぶ。娘を清楚に見せていた白い木綿のブラウスが光沢を帯びて、胸元のボタンがはらりと外れた。娘の体からは、ほんのり、桃の香りが匂ってくる。娘は舌でもてあそんだ康彦の指を首元へといざなう。
「押してみて」
康彦は、指に力を入れて、片手で娘の首を締め付ける。
「あとが残るでしょ。ここも」
残った手は乳房を掴んでいる。柔らかく弾力がある乳房は、強くつかむと赤く痕跡が残る。
「何をしても構わないの。私には。何でもできるのぉ。ここもよ」
娘はくすくすと康彦の耳元で笑った。
娘の服はいつの間にか溶け落ちて、かすかに光るわずかな布のみが体を隠している。康彦の指は、その下腹部を覆っていたわずかに残る布の中に滑り込んでいる。桃の熟した香りが室内に満ちている。康彦は娘に引きずられるように、夜具のなかに倒れこんだ。いつの間にか、まっ赤な寝具が用意されている。
「やすちゃん・・・おいで」
娘が康彦の耳元で囁き、熱い吐息を首筋に吹きかける。
その声で、娘の体を弄り、白肌に赤い痕跡をつけることに夢中になっていた指先が止まった。
「まさか・・・子ども、いるのか?」
娘の吐息交じりの声が、先ほど子どもを呼んだ自転車の母親と重なる。同じ声だと思う。
「子ども・・・いたらどうなのぉ」
娘は体を反転させて康彦の上にまたがり、ものを手に取ると自分に中に導こうとする。
「待ってくれ・・・」
康彦は体を起こして、窓辺ににじり寄った。
「まだ、途中よぉ」
娘の顔が変化している。
「あなたも子ども、持ってるでしょ。あなた。私、もっと欲しいのよ、子ども。あなたの子ども・・・」
娘の顔がぼやけてくる。なにやら小さな点のようなものが蠢き、見えるのが輪郭だけになったとき、大量の蟻が窓辺から上ってきた。康彦、その場を動くことができない。
蟻は次第に子どもの姿となり、娘の側に寄り添う。娘はまた人の姿に戻っている。
「この子に妹を作ってあげるのぉ。あなたが持っているものが必要なのよ。おいで、やすちゃん・・・あなたを通じて、子どもを気を受け取りたいのよ」
娘は傍らの童を愛おしそうに眺めると、両手で康彦を誘う。開いた太ももからは甘い香りが漂っている。
「おいで・・・要らない子ども、もらってあげる」
娘の芳香が康彦を覆う。康彦の指先に娘の肌をなぶった感触が戻ってきた。指先から漂う芳香が康彦を娘へと誘う。
「とても気持いいのよぉ」
娘は自分の中を掻き回した指を康彦に差し出した。
「おいで・・・、ねぇ」
娘の腕が康彦を抱き寄せる。香りが強くなる。
別の香りが頭に響いた。亜美だ。亜美の体臭が桃の香を押しのけて、窓から風にのって康彦を包む。
(・・・戻ってきて・・・そこは駄目・・・)
急に亜美が苦しんでいる姿が脳裏に浮かんだ。俺を呼んでいる。
康彦は残っている力を振り絞って、香りにみちびかれるように窓から外へと飛び降りた。茂った桜の枝にぶつかりながら、桜の枝を伝うように地面まで滑り落ちる。そのあとを蟻が同じように枝を伝わって下りてくる。
康彦はひたすらに坂を上る。
(ふりかえっちゃ・・・だめ・・・)
目の前に、熟れて潰れた桃が一つ落ちていた。
(投げて!)
康彦は、桃を拾うと、振り返らずに、いま来た道に投げ捨てた。追ってきた蟻がその桃に群がる。
その瞬間、康彦は見知らぬ道に立っていた。
「ここは、どこですか?」
「奥沢です」
「奥沢?」
先ほどまでいた桜坂と奥沢は近い。とはいえ、歩けば30分ほどの距離だ。
「世田谷区奥沢ですよ。・・・道に迷ったのですか?」
いまどき珍しく和服を着こなした品のよい老婆は、小首をかしげて、康彦を見ている。
「背中に・・・」
老婆は、そっと康彦の背広を叩いた。皺だらけの老婆とは思えない力が康彦にかかる。ぽん、ぽんと老婆が服を叩く。
無数の蟻が落ちる。
落ちた蟻は、そのまま列を成して進み、道路の切れ目に消えていった。
康彦は、軽く老婆に会釈すると、そのまま走り出した。まだ、俺は迷っているのかもしれない。
闇雲に走っていると、見慣れた道路に出た。すぐにタクシーを拾う。
深夜、康彦は病室にいた。ベッドに横たわっているのは、亜美だ。
「無事でよかった・・・」
ベッドの傍らで座る康彦は、細い亜美の手を握り締めている。
「夕方6時ごろ、突然痛み出して。流産しそうになって・・・あなたに連絡取りたかったけど、電話もメールも通じないし・・・痛みと戦ってる時、変な夢を見たの。あなたが光沢のある大きな繭に包まれて、次々に子どもを産むのよ。私じゃなくて、あなたが産むの。同じ顔の女の子を次々に・・・。不思議でしょ」
小さな産婦人科のベッドで亜美はつぶやく。
「あなたが私の子どもを持っていくのかって…」
「昨日は酷いことを言ってごめん」
「いいのよ」
「驚いたんだ。まだ、決心が付かなかった。結婚しようか」
「いいのよ、責任感で言ってくれなくても」
「君が助けてくれた。ありがとう。」
亜美は、じっと康彦の顔を見つめる。
「子ども、女の子なのよ」
「知ってる」
「知ってるの?」
「ああ、守れてよかった」
亜美が思い出したように笑った。
「いろんな夢を見たのよ。夢の中で、女の子が絵本を読んでって本を持って来たの。それが古事記なのよ。黄泉の国から戻る時に、振り返ってはいけない・・・って話。読みながら、なんだか、とてもリアルで・・・」
俺たちの間に産まれてくる女の子が、俺を救ってくれた。
「ありがとう」
蟲童
無数の蟲で成り立つ子どもの妖怪。芳香を持つ母とともにいる。妊婦の父親を狙って地下に取り込み、男をとりこにして繭を作り、家族を増やす。
蟻、蜂、蚕蟲など、様々な形態を持つ。