バーバラ・アレン
ブチがうちに来たのは母のお葬式が終わった次の日だった。
ブチは既に大人で、父が喪服姿のままぶらっと出かけて拾ってきた猫だった。
体に大きなほくろのような斑点が一つあり、父は既に「ブチ」と呼んでいた。
暑い夏の日で、セミがうるさい日だった。
ようやくお葬式の片付けが終わり一息ついていた私は
父の笑っている姿に驚き、少し腹立たしくもなった。
母は家族のためにすべてを尽くした人だった。
頑固者の父に21歳で嫁いだ母は、一度も仕事をさせてももらえなかった。
女は家を守るもの、これが父の口癖だった。
いわゆる田舎ものでどうしようもなく何もできない父を、母は文句一つ言わず家を守り抜き、そして死んだ。
「どうしたの?その猫」
父に問いかけると
「拾った」
とぶっきらぼうな返事が返ってきた。
「子猫でもないのに、飼うつもりなの?」
私の問いかけに父は何も答えなかった。
母は自分の人生に満足していたのだろうか。
そう思うと情けないやら悔しいやらでいっぱいになった。
父との生活は母にとってどんなものだったのだろう。
いい服もいいバッグも、美容院にさえ行かせてもらえずまるで牢屋に入れられた犯罪者のように、父は母をがんじがらめにしていた。
私が結婚する時、母に言われた事がある。
「自分の信じたようにやりなさい。そして、幸せになりなさい」
母は幸せだったのだろうか。
母の幸せとはあんな生活だったのだろうか。
母への思いを馳せ父の方を見ると、父はブチの背中を撫でながら軽い鼻歌を歌っていた。
『バーバラ・アレン』
スコットランドの民謡でバーバラという少女を愛した男が死んでしまい、その男性を愛していたバーバラも後を追って死んでしまうという歌。
どこでこの歌を知ったのか、父の鼻歌はまさにこの歌だった。
父は笑ってなんかいなかった。
母の代わりであるかのように、ブチを抱きしめ、歌うことをやめなかった。
かすれた声でうつむきながら。
母がいなくなってから、父の生活はみじめなものになってしまった。
家事を一切した事のなかった父は自分一人では何もできず、私と妹のどちらかがなるべく実家にいられるようにした。
そんな私たちにも父は「早く旦那さんのとこへ帰りなさい」とその言葉だけ繰り返すのだった。
縁側でぼ〜っと空を見つめたり、ボロボロになった古い本を出して読んでいるかと思えば寝室から全く出てこない日もあった。
そんな時、唯一ブチと過ごしている時間だけ父が生き生きしているように見えた。
私は、まだ少し父を許せないでいた。
そんな父も去年死んでしまった。
母を追いかけるように、母が死んだ次の年に。
心臓発作だった。
父の書斎に入ると、いつも読んでいた一冊の本が目に付いた。
何気なく手にとってみると本の裏表紙に母の字でこう書いてあった。
「愛を込めて・・・あなたへ」
母は幸せだった。
窮屈な生活でも、父と一緒にいられることが母にとって何よりの幸せだったのだ。
私は涙をこらえながら『バーバラ・アレン』を口ずさんだ。
愛し合う二人のように、同じ墓で永遠に眠ってもらおう。
「バラのツタは決して解けない愛の絆」
父と母の物語は、決してロマンティックなものではないけれど、この曲と共に一生胸に刻んでいこう。
私の足元でじゃれているブチを抱き上げてぎゅっと抱きしめると、
父の匂いがした。