柳枝は風に浚わるるとも(改訂版)
こちらは改訂版になります。
いつも通り、歴史要素は添えただけ。
玄蕃と廉とその娘、大井家のお話です。
山南藩家中において大井霞といえば知らぬ者はいない。
女だてらに撃剣道場に通い、男と混じって稽古をしていると聞けば、好奇に思うにせよ眉をひそめるにせよ、いずれにせよその名が知れるのは無理からぬものだ。
何ゆえそれが許されるのか、と問われれば、偏に彼女自身の才によると言える。
齢十二にしてすでに中西一刀流の切紙を許されたと聞けば、その天稟のほどがわかるだろう。
ただし、その才を家族が必ずしも歓迎しているとは限らないのだが……。
「霞、今日もまた道場へ行くのですか」
「ええ、剣において一日怠れば三日を失う。母上も御存じでしょう?」
今日も今日とて、霞は道着を手に大井家の玄関を出ようとしていた。
「しかしですね、今日こそはお茶のお稽古に行くと約束したではありませんか」
「それは母上が勝手に言っていただけでしょう?」
「なんですって」
「私は『行く』だなんて明言してませんもの」
母親と霞の会話もいつものことである。
が、今日はさらに人が加わった。
「どうしたのだ、廉。朝っぱらから」
大井家当主、大井玄蕃その人である。
玄蕃は今日非番であり、朝は久々にゆっくり過ごす予定だったのだが、そうはいかなかったようだ。
「おはようございます、お前さま。お前さまからも言ってくださいよ」
「なんだ?」
「霞ったら今日も道場に行くと言ってきかないのですよ?」
「うむむ」
「別に母上には私がどうしようと関係ないでしょ?」
「なんですって!!」
どうやら今日もまた母娘揃って譲る気はないらしい。
「まあまあ、廉も落ち着きなさい。しかしな、霞よ。お稽古も通う約束ではなかったか?」
「これが落ち着いていられますか」
「いや、そうは言ってもだな」
少しばかり頭に血が昇っている廉をなんとか押しとどめる。
「だが霞、茶の湯も学問も剣術と同じく大事だというのがなぜわからんのか」
「父上まで母上の味方なのね」
「いやいや、そういうつもりはなくてだな」
「知らない、知らない。父上も母上もだいっきらい!!!!」
そう言うと、霞はまるで両親から逃げるようにして堂上に向かっていった。
(一体どうしろというのだ)
大井玄蕃は困っていた。
そもそも廉は霞を道場に通わせること自体に難色を示していた。
玄蕃はそれをどうにか宥めすかして、昼夜を問わず説得をして、(むしろ夜は夫婦としての時間の方が長かったとはいえ)連日目に隈まで作って了承させたのだ。
その時霞に示された条件が「剣術以外の稽古にもきちんと出ること」だったのだから、これは大きな違背行為だと言わざるを得ない。
ちなみに玄蕃にはさらに代償として、廉の言うことをなんでも聞くという条件が課されていたりする。
今日の予定は一日かけて妻の愚痴を聞いた後でなんとかして機嫌を直してもらうことに決まった。
結局この日、霞が帰ってきたのは日が沈み、あたりが真っ暗になってからだった。
「霞、夕餉はいいのか」
「いらない」
そう言って閉められた襖は、まるで霞の持つ両親に対する隔意を明示しているようだった。
翌日、玄蕃は帰城すると木村を連れて飲み屋に繰り出していた。
「そうか、そうか。お前さんも嫁と娘には形無しか」
事の次第を聞いた木村の第一声がこれだ。
「そう言わんでもよかろう」
「だがうれしくないのか? 霞ちゃんは強くて優しくて器量もよいと評判じゃないか」
これは事実だ。
霞は母の廉に似て十二の子どもながらかなり美人の部類に入る。
下世話なものに至っては「あと数年たてば……」などと口にしている。
本人にはその自覚はないのが問題で、廉が目くじらを立てるのもそういったものに起因する。
「まあ、そのうち好きな男の一人や二人できれば落ち着くさ」
「それはそれで気に食わん!!」
まるでその男が目の前にいるかのような表情をして片方しかない手を思い切り机に叩きつけた。
玄蕃とて、決して娘がかわいくないわけではないのだ。
ただ、少しばかり、いやかなりお転婆に育ったせいで親の言うことを聞いてくれないのをどうにかしたいのだ。
「いっそ自分が指導することにして、修行の時間を夜に移したらどうだ? 枯葉流皆伝様」
「片手では指導は務まらんよ。なにより霞が望んでおらん」
「“片腕の玄蕃”が何を言うのか」
木村は、かつて謳われた玄蕃の異名を口にした。
一度は片腕を失いながら狼藉者を斃し、また一度は片腕のまま主君を狙う謀叛人どもを成敗した。
「何よりもう若くはない。それに“片腕の玄蕃”も過去のものだ。現に霞にはわしの話を父親の法螺だと断じられた」
「それはつらいな」
そう語る玄蕃の背中には、哀愁が漂っていた。
「つらいもなにも、事実は事実さ。今や城下は小野一刀流が一番で中西が次点。枯葉流など文字通り誰の目にもとまらぬ落ち葉も同然さ」
「そんな」
「少なくとも、霞はわしの指導なぞ受けようとも思わんよ」
「大井……」
木村は、玄蕃に対してどう声をかけたものかわからなかった。
「まあ呑め呑め、ひとまず呑んで忘れろ」
木村が選んだのは、玄蕃をひたすら呑ませることだった。
玄蕃も何も言わずその盃を受ける。
木村の注ぐ酒は、いつにもまして少し辛い気がした。
それから数日たったある日。
今日も今日とて霞は母の手を振り切って道場へ向かう。
(父上も母上もどうしてわかってくれないのよ)
自分には剣しかない。
剣の世界なら男も女も関係ないのだ。
強いものは強い。
みんなが自分を認めてくれる。
少女は天才だった。
天才ゆえに周囲は皆彼女のことを認める。褒め称える。
それが少女の喜びに繋がっていた
その唯一の例外が、実の父と母というのは、彼女にとっては納得できないことだった。
(父上も、母上も、喜んでくれると思ったのに)
礼儀作法も、お茶もお花も、学問も、どれ一つをとっても自分は凡庸である(と、彼女は思っていた)。
なにせ年嵩の者たちに勝てるのは剣だけだったのだ。
女の身で剣を振るって何が悪い。
一日中部屋に籠っている父よりもよほど武士らしいではないか。
(“片腕の玄蕃”なんて大法螺よ。そもそもあの風体で剣を振るえるはずないわ)
少女の認識は大井玄蕃という人物を知る人間からすれば間違っているどころか噴飯ものの話なのだが、残念なことに彼女にとってはそれが真実だった。
事実、玄蕃は霞の前では木刀の一つも握らなかったし、そもそもが本人も認めるほどの醜悪な面体だ。
それを嫌いだとはさすがに霞も思わないが、強そうに見えないというのも確かなのだ。
惜しむべきは、彼女にその認識を改めさせようという努力を玄蕃自身がしなかったことか。
「おや、霞ちゃんは今日も早いね」
「おはようございます。師範」
「おはよう」
師範の高野忠兵衛は温和な人物である。
道場の気風も穏やかなもので、だからこそ女の霞も受け入れられるだろうと思い、玄蕃が頼み込んで入門させたのだ。
もっとも高野は思わぬ才に驚き、素晴らしい子を預けてくれたものだと逆に感謝していたが……。
「それで、その、土橋さんは?」
「土橋ならもう素振りでもしているのではないかな」
「ありがとうございます」
目的の人物の所在が知れると、霞はあっという間に道場へ向かった。
「才はある。が、心形がなっとらんようじゃの。まあ、まだ幼いしこれからかの」
師匠の独白は、当人には届いていなかった。
大井邸では夫婦が共に頭を抱えながら話し合っていた。
話題はもちろん彼らの愛娘のことだ。
「もう、どうしたらいいのでしょう」
廉は疲れたように言った。
「廉は、あの子が剣を振るのには反対か?」
「いいえ」
「おや意外だな」
玄蕃としては、廉は徹頭徹尾反対であり、女の子は大人しく慎まやかに育つべきだと考えているものと思っていたのだ。
「私はあの子がやりたいことをやるのに反対はしません。それが例え剣でも」
「ではなぜあんなに反対を?」
「お前さまも、ことあるごとに学問をお勧めになっているのですから同じでしょう?」
「それはまあ、な」
「お前さまも分かっていらっしゃるのでしょう? このまま剣だけに傾倒してはあの子のためにならないと」
「なんだ、お前もか」
玄蕃は自分と妻の意見が一致していることを初めて知った。
剣の道を駄目とは言わない。
しかし、それだけでは足りないのだ。
剣士としても、武士としても、女としても、――何より人としても。
「私だって母親です。あの子のことは全てでなくともわかっているつもりです。今、剣にのめり込んでしまっている理由も」
「廉……」
「天稟がある、それはたしかだと思います。でも、あの子は剣の道に進むということが、お前さまと同じ道に進むことがどういうことかわかっていない。いえ、知ろうともしない」
「わしも、その点に関しては霞のことを言えぬのだがな」
玄蕃は思い当たる節が少なからずあるのか顔を顰めながら言った。
「十三年前、あの高木清左衛門とお前さまが闘ったとき、私は気が気でありませんでした」
「………」
玄蕃の自嘲が呼び水となったのか、はたまたこの度こそ好機と考えたのか、廉は玄蕃に自分の思いのたけをぶつけることにした。
「お前さまに置いて行かれて、相手は藩内一の遣い手で、もうお前さまと二度と会えないかと思いました」
「………」
「血まみれのお前さまを見たとき、私は心臓が止まるかと思ったのですよ?」
「それは……済まぬことをしたな」
「ほんとですよ。今はもう、いいのです」
「そうか」
「ええ、だって、それもこれも含めて私のいとしい旦那様なのですから」
どうやら、廉は言葉にしただけであって、玄蕃にこれといって不満があるわけではないらしい。
「ただ……」
「あの子までこの道に進んでほしくはない、か」
「はい、お前さまが片手になった経緯さえ、あの子は直視しようとしないのですもの」
「『片手の父上がそんなに強いはずがない』だったか」
「ええ、命のやり取りをして、片手だけで済んだというのがどれだけの僥倖だというのか」
「おまけに、『“片腕の玄蕃”は左手一本で悪党を成敗した』なぞ、とても信じられんのは無理ないさ」
「でも、事実ですもの!!」
「まあ、な」
どうやらこの妻は、夫にも娘にも無理をしてほしくない反面、夫の剣名が貶められるのはたとえ娘でも許せないらしい。
「『学問も、礼法も、剣術も、すべては道であり、心行なのだ』」
「お前さま、それは?」
「亡父の言葉だ。碌に息子と話をしない、口下手な親爺だったがな」
「まあ、お義父様の」
玄蕃の両親は、玄蕃が十になるかならないかの内に亡くなっている。
そんな昔の亡父の教えを今もなお玄蕃は心に止めているのだった。
「ま、あの子もいずれわかってくれるだろう」
「そうでしょうか」
「そうだとも。何といってもわしとそなたの娘なのだからな」
「そうですね」
玄蕃にも廉にも特段何か根拠があるわけではない。
それでも、「自分たちの娘なら必ずわかってくれる」
なぜかはわからないが、不思議とそう信じることができた。
その頃霞は、道着に着替えて道場に入っていた。
「土橋さん、おはようございます」
「霞か、今日も早いな」
「ええ、その」
「いいよ、今日も僕が見よう」
「あ、ありがとうございます」
霞の目当ての人物――土橋伊右衛門はこの道場の高弟の一人だ。
残念ながら嫡男のため道場での役職は与えられていないが、技量は師範・師範代に次ぎ、御前試合で優勝するほどの実力者だ。
彼に指導を受けようと思うのもおかしくはない。
が、霞が彼に指導を頼むのはそれだけではない。
涼やかな目元に、高い鼻、そして整った顔立ち。
なにより柔和な表情をいつも絶やさず、霞のことも一人の剣士として扱う。
そんな土橋に、霞は憧憬の念とほのかな慕情を抱いていた。
時が流れ、道場が閉まる頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
「霞」
帰りしなに、彼女のことを呼ぶ声がした。
「土橋さん?」
「霞、よかった。まだいたのか」
「ええ」
「よければ、夕餉でも一緒にいかないか?」
「構いませんわ」
本来であれば、未婚の男女が二人で食事など以ての外である。
しかし、霞は自身の慕情と、両親への反抗心から、この話を了承してしまう。
直後――
「えっ」
少女の意識は、暗転した。
その日、帰宅した玄蕃を迎えたのは憔悴しきった様子の妻だった。
「廉、どうしたのだ?」
「霞が、霞が戻らないのです」
「この時間にか!?」
今は先程戌の刻(午後八時ごろ)を告げる鐘が鳴った。
いつもはいくら遅くなるとはいえ申の刻(午後六時ごろ)までには帰ってくるのに、である。
「道場ももうとっくに閉まっているはずだ」
「お前さま、もしあの子に何かあったら、私っ、私」
「ええい、そう悲観するな。とにかく心当たりを探すぞ」
そうやって玄蕃が動き出そうとしたその時である。
――ヒュッ
鋭い風切り音がした。
玄蕃は咄嗟に廉をかばいながら、鞘ぐるみ剥いだ自身の愛刀で飛来物を叩き落とした。
「矢文、か」
「お前さま、いったい」
「読んでみねばわからぬ」
玄蕃が手にした文には、こう書かれていた。
「娘は預かった。
東の空家にて待つ。
大井玄蕃殿一人にて来られたし」
「お前さま、この事をすぐに知らせましょう」
「それはそうだが、出向くのはわし一人だ」
「そんな」
「霞が捕えられておる。ご丁寧に名指しで来いとも言われている。なれば、行かねばなるまい」
「しかし」
「お前はすぐに知らせに行け。そしてできるだけ早く加勢を連れてきてくれ」
「待ってくださいまし」
「一人で敵わぬのはわかっておる。お主と、お主が呼ぶ加勢とが頼りなのだ。」
「!!……わかり、ました」
「うむ、仕度を手伝ってくれ」
玄蕃は腰に国俊と国光、そして襷がけという出で立ちだ。
十三年前、高木清左衛門の討手として出向いたときそのままの格好だ。
違うのは、既に鯉口を切れば抜けるという状態で、大小が右腰に差してあるというくらいか。
「ふむ、これで良い」
「今度はちゃんと見送ります」
「当身は要らぬか」
「ええ、だって、信じてますから」
「うむ、必ず戻る」
「私も、すぐに参りますわ」
かくして玄蕃は指定の場所へ、廉は森長門守屋敷へと急いだのだった。
霞が目を覚ました時、自分がどのような状態にあるのか理解できなかった。
なぜか、両手両足は縛られており、土の上に転がっている。
辺りは真っ暗だが、辛うじて外を遮るように壁が囲っている。
天井から覗く月明かりが、あたりを照らしていた。
そして、霞は自分を囲むようにして人が立っているのを見つけた。
それも二人や三人ではない、実に十人以上の人間が、この敷地内に屯していた。
(ええと、私はたしか土橋さんと話して、それから……)
「やっと起きたのか」
「あ、土橋さん。これ、解いてもらえませんか」
武装した男たちの中に知った顔を見つけ安堵した霞は、自分を自由にするよう頼んだ。
「解く? どうして?」
「えっ……」
土橋はさも霞の要求が不思議だという風な顔をした。
「助けてくださいよ、土橋さん」
「助ける? 大事な人質を?」
「ひと、じち」
霞は、土橋が何を言っているのか理解できなかった。
「ああ、人質さ。忌々しいお前のお父様――大井玄蕃を呼び出し、殺すためのね」
「こっ、殺、す」
「ああ、何せあいつがいると僕は上に登れない。剣の腕はもう僕の方が上だというのに、いつまでたっても殿のお気に入りだ」
土橋はどうやら玄蕃を殺すためにこれだけのゴロツキどもを集めたらしい。
土橋は実に忌々しそうに話を続ける。
「知ってるか、ここは君のお父上が初めて武名を挙げた場所だ」
「ぶめ、い?」
「なんだ、知らないのか。自分の父親のことも。今となっては学問一辺倒の惰弱な側仕えだが、元々はその類稀な剣腕を以ってあいつは殿のお気に入りになったというのに」
「おき、にいり……?」
「“片腕の玄蕃”、その名を知らぬ者はいない。――もっとも過去の遺物だが」
「それは、母上の作り話じゃ」
「全て事実さ」
霞は、今更ながらに知る父の真実に驚いていた。
このような状況でなければ、土橋にすぐさま否定の言葉を浴びせかけただろう。
あの父に限ってそんなはずはないと。
だが、霞の様子などお構いなしに土橋の独白は続く。
「それに、君のお父上は年貢半減、俸禄半減に同意しやがったんだ」
「えっ?」
「おかしいと思わないか。なぜ下賤なる百姓どもより高貴なこの僕らが我慢しなければならない?」
「飢饉? それがどうした。 洪水? 何の影響がある」
土橋は自分の主張を滔々と述べ続ける。
まるで、さも自分が正しいのだと高らかに宣言するかのように。
「安心しなかすみぃ、君はかわいいからねぇ。僕が飼ってあげるよ。一生奴隷としてね」
「ひっ、嫌っ」
「どうした、僕をあんなに慕ってくれたじゃないか」
「助けてっ」
土橋は狂気に包まれていた。
これから自分の世界だと、すべてが自分のために回っているのだと、そう嗤いながら。
「ふむ、それが貴様の主張か」
「何者だ」
「招待客の名も忘れたか。大井玄蕃だ」
「大井、早かったじゃないか」
「可愛い娘のためなら、一も二も無くやってくるのが父親ってものだろう?」
「ふむ、なるほど」
「父上、逃げてください。殺されてしまいます」
「ふふっ、逃がすと思うのか」
懇願する娘と父親の顔を交互に見ながら、土橋は不敵に笑う。
見れば、玄蕃はいつの間にか抜刀した男たちに囲まれていた。
「“片腕の玄蕃”も舐められたものだな。これしきの人数で斃せるとでも?」
「ふん、所詮はったりだ」
「待っていなさい、霞。一緒に廉の元に帰るからな」
「そんな、ちちうえ」
霞は玄蕃がこれからこの人数を相手に戦うことが信じられないのだろう。
まるで赤子がいやいやをするように首を振りながら涙を湛えている。
「霞」
「!!」
「待っていろ、すぐ助ける」
玄蕃はそう言うと、腰に差した国俊の鯉口を切り抜き放った。
その刀身は月明かりを受けてギラリと光を放つ。
「お主ら、覚悟はできてるんだろうな?」
「ヒイッ」
土橋たちはその剣気に圧されて思わず後ずさる。
「な、何をしている。相手は所詮一人だぞ。かっ、かかれ、懸れ」
土橋は自身も気圧されているなかで絞り出すように声を上げる。
だが、誰一人として自分から動こうという者はいない。
その様子を見ながら、玄蕃は刀身を後ろに引き前傾姿勢になりながら土橋を睨みながら静かに言い放った。
「大井玄蕃、押して参る」
廉は苛立っていた。
こんな夜分では、城にも番所にも数人しか詰めていない。
従って、頼れるのは実家の森家が動員できる戦力である。
そのため急ぎ森屋敷に向かい父陸奥守(祖父の長門守は先年隠居している)を叩き起こすと、すぐに手勢をそろえさせようとした。
だが……。
「出せぬ? 出せぬとはどういうことですか!?」
「すまぬが、これは私闘だ。私闘には加勢を出せぬ」
「そんな、父上は霞がどうなってもいいというのですか」
「そうは言わぬ、霞は助けてやりたいさ。しかし、少なくとも家老職として兵を動員することはできんのだ」
廉は父の表情を見て、本当に動かすことができないのだと悟った。
「わかりました、これ以上無理は言いません」
「すまぬ」
「いえ、それでは失礼します」
そう言って、廉は部屋を去ろうとした。
「待て、どこへ行くのだ?」
「玄蕃様と霞のもとへ」
「死にたいのか?」
「夫と娘と共に逝くのなら本望です。それに――」
そこで、廉は言葉を切り、父に宣言するように言った。
“玄蕃様は負けませんもの”と
廉のその何があっても考えを変えぬという娘の様子に、陸奥守は到底かなわないという風にして言った。
「まあ、私闘を治めるのも仕事か」
そう言うと、陸奥守はさらに声を張り上げて言った。
「皆の者、捕り物じゃ。仕度をせよ」
その声を聞いて、隣室から慌ただしく家人が走っていく様子が聞こえた。
すぐに人数が揃うことだろう。
「……父上、ありがとうございます」
廉が感謝の意を伝えると
「気にするな、喧嘩は両成敗が御法度ぞ」
苦笑しながら陸奥守は言った。
「構いませぬ」
森家の家人と、月番の藩士だけで二十人と少し。
彼らを従えて、廉はすぐに走り出した。
(お前さま、霞、どうか無事でいて)
駆け抜ける廉たちの姿を、満月だけが見守っていた。
「大井玄蕃、押して参る」
そう宣言した玄蕃は真っ直ぐに駆け出した。
玄蕃を捉えようと前方や左右から刀や槍が付きだされてくるが、それは全て空を切る。
枯葉流極意剣「柳枝の大刀」。
その伝書に曰く「柳の枝は風に浚わるるとも、折れず、曲がらず、形を変えざる」と。
三下風情の剣戟なぞ気にも留めずにすり抜けていく。
さながら風を受け流す柳の枝のようであり、「柳に風」というのはまさしくこのことを言うのかもしれない。
さしたる障害も無く一番奥の霞と土橋の目の前までたどり着いた玄蕃は、退け腰ながらなんとか正眼に構えている土橋の刀を疾走する勢いのまま国俊で弾き飛ばした。
土橋の刀は月光を反射しながら宙を舞い、土橋は大きく仰け反る。
「うちの娘は返してもらう」
そう言った玄蕃は素早く霞の縄を斬ると、霞を背にして振り向いた。
「立てるか?」
「うん」
霞の後ろには壁があり、左右も出口はない。
幸いにして後背を衝かれることはないが、逆を言えば逃げ場がなかった。
それでも玄蕃は、これ以上娘に指一本たりとも触れさせてなるものかと思い、左手一本しかないその手で、刀を下段に構えた。
一陣の風が玄蕃とゴロツキたちの間を横切った。
「えいっ」
沈黙に耐えかねた男が、左側から玄蕃に袈裟懸けに斬りかかる。
「ふむ」
玄蕃は男に合わせて呼吸を計り、一拍速く国俊を逆袈裟に振りぬいた。
「えっ」
初めて霞の前で、人が一人事切れた。
目の前の男から止まることなく流れ続ける血は、まるで現実のものではないように霞には思えた。
しかし、玄蕃にしても土橋たちにしてみても、闘いの壇上に上がってもいない少女を気に掛ける余裕などない。
刀を振りぬいた様子に隙を見出したと考えたのか、右側に控えていた男が玄蕃へと肉迫する。
「死ねぇぃ」
「甘いな」
玄蕃は身を翻しながら振り上げた刀身を一気に振りおろし、突っ込んできた男の頸脈を切り裂いた。
そしてその男をそのまま右足で蹴り飛ばすと、男の後ろから槍を突き出そうとしていた別の男に当り、槍使いはそのまま支えきれずに倒れ込む。
「それっ」「覚悟っ」
すかさず正面から二人の槍持ちが同時に突きを繰り出してくるが――。
「なっ」「どうして」
剣閃が二度きらめくとその槍はどちらも穂先を失い使い物にならなくなる。
そして「黙って寝てろ」とでも言う風に玄蕃は両者の頸椎に肘鉄を食らわせ昏倒させた。
「そこだっ」
さらに先程倒れた槍使いが右から突っ込んでくるのだが。
「どこを狙っているんだ」
半歩下がって躱した後は、刀の柄を脾腹に当て失神させた。
「嘘……」
そう呟いたのは他でもない、玄蕃の娘である霞だ。
なにせあっという間に五人を無力化したのだ。
驚くのも無理もない。
「さあ、次は誰だ。死にたい者だけかかってこい」
玄蕃は一言、そう凄む。
一歩、玄蕃が足を踏み出す。
すると男たちもまた一歩、後ろに後ずさった。
「どうした、かかれっ、かかれえっ」
土橋の声が虚しく響くが、誰もその声に応えるものはいなかった。
玄蕃と男たちの間を静寂が支配する。
「ここよっ」
ふと、女性の甲高い声が響いた。
「母上!!」
廉が、加勢を率いて到着したのだ。
気圧されていた男たちの中に諦念が広がる。
「くそっ、くそっ、なぜだっ、どうして」
土橋は思わぬ援軍の登場に、事態を把握できないでいた。
そもそも玄蕃一人にここまで手こずる予定はなかったのだ。
それに援軍などこの夜中に動けるわけもない。
囲みを斬り抜けようにも、もはやゴロツキたちは役に立ちそうにない。
「行くしかないか」
自分を含めて五人、これが土橋の現存する最高戦力であった。
残る四人はいずれも土橋家の家人や道場で引き入れた仲間である。
単なる食い詰めとは一段も二段も格が違った。
土橋は手を挙げ合図をすると、意を決してゴロツキたちの前に出た。
「大井玄蕃、どうやら僕の負けのようだ」
「………」
彼はまるで打つ手がないというように肩をすくめてみせた。
「ただね、お前は、お前だけは一緒に死んでもらう」
土橋がそう宣言すると、それに合わせて四人揃って抜刀し、一斉に斬りかかる。
四人同時ならばさしもの玄蕃も対応しきれまい、そう思ってのことだった。
刹那、だった。
霞の目には、玄蕃の動きが必ずしも速いものとは思えなかった。
いや、むしろ緩慢であったとさえ思える。
しかし、その瞬間たしかに玄蕃は反応していた。
一人目を躱し、二人目の刀を弾き、三人目に当身を食らわせ、四人目を蹴り飛ばした。
全て、相手の刀が玄蕃を斬り裂くか否かのタイミングで、である。
さながら柳の枝のごとく……。
後に玄蕃は「拍子を合わせれば造作もない」と言ってのけたが、とても常人の所業とは思えなかった。
最後にまだ戦える一人目と二人目を無造作に斬り捨てると、ゆっくりと土橋の方へと向き直した。
さながら「あとはお前だけだ」とでも言うように。
「あ、ああっ」
土橋は自失した体だった。
なにせ一瞬にして最高戦力の四人が屠られたのだ。
無理もない。
一人でおびき出すために人質を取った。
集められるだけの人数を集めた。
自分と同等の者たちさえ四人も揃えた。
それでもなお、目の前の男に自分は勝てなかった。
「どうした、お前は来ないのか?」
玄蕃が動こうとしない土橋に声をかける。
(そうだ、僕はまだ負けたわけではない。玄蕃を、奴を斃せさえすれば僕の勝ちなんだ)
玄蕃を斃した後のことなど、もう土橋の頭の中にはなかった。
とにかく目の前の憎い男を斃す。
自分に立ちはだかる目障りな存在を斃す。
その事だけが、土橋の中を満たしていた。
土橋は刀を上段に構えて玄蕃に向かって駆け出す。
銀色の光が、一閃した。
雲一つない夜空を、血の雨が濡らした。
土橋の瞳は、血で身を穢しながらなお月明かりを受けて光る、玄蕃の国俊を映していた。
玄蕃は土橋を背に、霞のもとへと歩いていた。
今動けば、今斬りつければ殺せる。
土橋はそう思うが、もはや彼には指一本動かすこともできなかった。
そのまま土橋の瞳は、光を失った。
土橋を斃したあとは簡単だった。
残ったゴロツキたちは武器を手放し、投降の意を示したからだ。
廉が連れてきた手勢たちが捕縛や後始末をしていた。
「お前さま、御無事ですか!?」
廉が息を切らせながら玄蕃に駆け寄る。
「廉」「母上」
玄蕃と霞もその姿を認めた。
「お前さま、こんなに血まみれになって」
「返り血だ、見た目ほど酷いものではない」
玄蕃はあまりにも大事のように言う妻の様子に苦笑しながら、自分が無事であることを伝えた。
続いて、廉は娘の方に向かい合った。
「霞」
「母上……」
廉は霞の方に近づいて行く。
霞は怒られることを覚悟して、目をつぶりながら歯をギュッと喰いしばった。
「……えっ」
しかし、霞が迎えたのは叱責ではなかった。
気が付けば自分は、母に抱きしめられていたのだ。
「よかった、ほんとによかった」
そう言いながら廉は痛いほどに強く霞を抱きしめていたが、霞は不思議とその痛みが嫌ではなかった。
「母上」
「なに?」
「ごめん…なさい」
「いいのよ、貴女が無事なら」
二人はしばらくそのままじっと抱き合っていた。
「玄蕃殿」
陸奥守が玄蕃に声をかけた。
「御家老、この度は何と申してよいか……」
「皆まで言うな。儂はただ私闘を治めに来ただけじゃ」
陸奥守はあくまで仕事であると言い張るようだった。
しかし現実には土橋の手下は全て縄を掛けられているのに対し、玄蕃は拘束されていない。
その真意がどのようなものであるか明白だった。
「左様ですか」
「ふむ、まあ、この歳になって娘にしてやられるとは思わなんだがな」
「廉が、ですか」
「おうとも。全く、どこで育て方を間違えたのか。霞も段々似て来よるし」
「ああ、なんというか」
「母娘揃って頑固じゃろう?」
「ええ、もう、その通りで」
「父上」「お前さま」
その時、二人が玄蕃を呼ぶ声がした。
「ほら、行きなさい。女子供を待たせるとおっかないぞ」
「ええ、それでは」
「うむ、詳しくは明日、な」
玄蕃は特に何かを訊かれるということも無く、そのまま廉や霞と共に自宅へと戻った。
――それから数日後。
「父上、稽古をつけてください」
「いや、忠兵衛殿に師事しているのだから……」
「師匠も『玄蕃殿に剣を習うのもまた宜し、存分にやってきなさい』と言ってくださいました」
「いや、しかしなあ」
玄蕃は霞に相手をせがまれていた。
しかし、玄蕃自身は乗り気ではないようだ。
「お前さま、どうされましたか?」
そこに廉がやってきて声をかけた。
「いや、霞がな」
「母上、聞いてくださいよ。父上が稽古をつけてくれるって」
「いや、そんなことは一言も――」
「まあ、よかったですわね。折角の逼塞中ですからめいいっぱい相手してもらうのですよ」
玄蕃は先日の一件により逼塞を申しつけられていた。
ありていに言えば、日中限定の自宅謹慎であり、自宅にいなければならない。
霞は玄蕃が自宅にいるのをこれ幸いと剣の稽古をせがみ、廉もまたそんな娘の味方をしていた。
「いや、だから――」
「はい。ほら、父上行きましょう」
「いやいや――」
「お前さま、木刀ならここに」
「おう、すまぬな。っと、いやそうではないだろう」
廉はこうなることを分かっていたように、玄蕃や霞の木刀を持ってきたのだった。
「それじゃ父上行きますよ」
「おっと、危ない。じゃなくていきなり斬りかかって来るな」
「父上ならこの位大丈夫でしょう?」
「お前さまですものね」
「いやいや、その理論はおかしい」
霞と廉の謎の信頼に、玄蕃は頭を抱えたくなった。
「こんな屋内ではなく、ちゃんと庭でやるぞ」
「やった!! 父上大好き」
「はいはい」
「霞、お昼までにしておくのですよ」
「お花でしょう? ちゃんと覚えてますから」
「それなら宜しい」
以前と変わって、霞がお稽古事にも積極的に参加するようになった。
だが、現在は他の誰かに師事するのではなく、廉と一緒に勉強をしている。
玄蕃はというと、剣の他に経書や兵書の講義もせがまれていた。
しかも、にこにこと笑って座っている廉も一緒にだ。
話を聞いた木村などは「お主の嫁と娘はなにを目指しているんだ」と驚いていたが、それを言いたいのは玄蕃の方だった。
かくして、大井家の一日は過ぎていく。
大井家の麒麟児の勇名が藩内の轟くのはこの数年の後のことであった。
さすがに二十番斬りはなあ、というのと、廉や霞のことをもっと書きたかったのとで改訂しました。
改訂前はするっと書けたのに改訂版は難産だったという……。
結局駄文なのは変わってないのですけどね。