階段落物語
気が付くと、リビングの椅子に座っていた。
俺は何でこんなところで座っているんだ?
二日酔いと思われる頭痛はまだ分かる。
昨夜は月に一度だけ行く居酒屋で、浴びるように酒を呑んだ筈だからな。
だが、全身が妙に痛いというのは……
どういう事だ?
そんな事を考えていると、お袋が洗濯物を運びながら通り掛かる。
「あ、あんた起きたの?」
お袋か……
何か用か?
「あんた階段から盛大に落ちてきたんだけど大丈夫なの?」
階段から落ちた?
誰が?
「いや、あんたが」
俺が?
マジでか?
さっぱり記憶にないんだが。
この全身を襲う痛みは、その所為なのか?
よくよく話を聞いてみれば、昨夜に泥酔して酔っぱらって帰宅した後、二階の自室に向かう途中で、足を滑らせ転落したと言う事らしい。
一番最初に気が付いたのは、階段の直ぐ下の部屋に居る弟だった。
まぁ、良い歳した三十路のおっさんが、階段から転げ落ちたら、そりゃ、気が付くよなぁ。
弟が、何事かと慌てて部屋を飛び出したところ、完全に白目剥いて動かなくなった俺を発見したっぽい。
揺すってもピクリとも反応しない俺。
焦った弟はお袋を叩き起こしたらしい。
結局お袋を起こしても状況は変わらず。
結局救急車を呼んだっぽい。
まじか……
救急車まで呼んじまったのか?
全く記憶にないんだが。
というか、救急車を呼んだ割には、何で俺は自宅で目覚めてるんだ?
「お、兄ちゃん。起きて平気なの?」
どうやら弟が二度寝から目覚めて来たらしい。
まぁ、実際は平気じゃないけどな。
頭頂部から両肩、背中、脇腹、腰と来て両膝までキッチリとダメージを負っている。
擦り傷に至っては幾つあるのか数えるのも面倒な位だぞ。
だが、兄としての安っぽいプライドが、弟の前で弱ってる姿を見せる事を拒否したんだ。
「兄ちゃんが階段から落ちてきた時はびっくりしたよ」
そりゃそうだろ。
多分、俺でもびっくりすると思うわ。
でもな。
こうポジティブに考えてみたらどうだ?
落ちてきたのが、兄ちゃんで良かったと。
もしも、何の面識もない全くの赤の他人が落ちてきてみろ?
びっくり程度じゃ済まない大問題になるぞ。
多分、救急車の他にパトカーも来ちゃうぞ。
そう考えたら、落ちてきたのが兄ちゃんで良かったって、心の底から思えるだろ?
何だったら、兄ちゃん落ちてきてくれてありがとうと、感謝の祈りを捧げてくれたって良いんだぜ?
そんな馬鹿事を考えていると、弟が何やらスマホを取りだした。
「兄ちゃんが落ちてきた時の動画撮ったけど見る?」
うおぃ!
まじか!
何やってくれちゃってんのコイツ!?
実の兄の非常事態に何してんの?
でも見ます。
見ちゃいますよ。
だって気になるんだもの。
……
うわぁ。
完全に伸びてるじゃん俺。
こりゃ、救急車呼ぶわ。
むしろこれで呼んでなかったら家族の愛情を疑うレベルだわ。
俺って愛されていたんだな。
弟とお袋に。
出来れば、美人な彼女にでも愛されたいなどと思うけど。
彼女すら居ない現状では、それは高望みってもんか。
お、救急車が来たっぽいな。
キビキビと動く男性達がやって来たぞ。
これは脈とったり、呼吸を確認したりしてるのか。
プロの手際っぽいな。
大したもんだ。
「大丈夫ですかー!」
お?
救急隊員さんが俺を揺すり始めたぞ。
最初はそうっとだったが段々大胆になってくな。
激しく揺すられ過ぎて、首がガックンガックンなってる。
まぁ、見た感じ寝てるだけだしなぁ。
画面の中の俺、すんげーイビキ掻いてるし。
「ん…… 誰?」
どうやら目覚めたらしい俺。
うん。さっぱり記憶にないわ。
「階段から落ちたとの連絡があって来たんですが、大丈夫ですかー!」
救急隊員さんは、非常にゆっくりと俺に話し掛けていた。
「階段から落ちた? 誰が?」
「あなたです。大丈夫ですか?」
おおう。何かつい先程の、お袋とのやり取りをみてるようだ。
そんな俺の惚けた対応にも、救急隊員さんは動じる様子は一切ない。
正にプロですわ。
「いや? 落ちてないよ?」
おいおい。
プロな人達に向かって、画面の中の俺はとんでもない事を言い出したぞ。
ちょっと落ちつけよ、画面の中の俺。
何でしょうもない嘘吐いてんだよ!
今の俺なら、記憶がなくても、階段から落ちたと信じられるぞ。
だって全身がすんげー痛いから。
画面の中の俺よ。
お前は体が痛くないの?
背中の皮とかずるむけよ?
何でそんなに平気そうなの?
救急隊員さんも、どうしたもんかと、ちょっと悩み始めちゃったじゃんよ。
「それじゃ、本当に落ちてないんですね?」
「おう! 落ちてないって。むしろ落ちたって言い張る奴の方が落ちてるんじゃないの?」
うん。
さっぱり意味が分からん。
何ドヤ顔で、意味不明な事を、主張しちゃってんの?
お前ついさっきまで、階段の下で思いっきり伸びてたじゃん。
「それじゃ、我々は帰る事にします。ただ異変を感じたら、直ぐに病院に掛かってくださいね。本日は日曜日なので、救急病院に行ってくださいね」
そう言って救急車は帰って行った。
最後まで礼儀正しい人達だったな。
画面の中の俺は、にこやかに救急車を見送った直後に、リビングの椅子に座るとまた動かなくなってしまったっぽい。
弟もその辺で撮影を止めたらしい。
動画はこの辺で終わっていた。
……
うん。色々と酷い物を見てしまった気分だよ。
とりあえず後で消防署へと、電話して謝罪しておこうと思う。
菓子折りでも持って行って謝りたいところだけど、あの人達は公務員だから、頑なに差し入れとか拒否するんだよなぁ。
どうしたもんかね。
どうしたもんかと言えば、この全身を駆け巡る痛みもどうしたもんかね。
まぁ、今日は日曜だし、明日になっても痛かったら、会社から休みでも貰って医者に行くとしようかね。
という訳で翌日。
当然の様に痛みは引かない。
と言うか、頭がすんげー痛い。
タンコブの直径が10cmくらいあるんだけど。
ぶよぶよとした触感が、非常に気持ち悪い。
とりあえず休みは貰えたし、医者に行くとするか。
向かう先は、お袋の店の客が経営しているという整形外科だ。
受付を済ませ、診察室へ入って行くと、見知った顔の爺さんが医者っぽい格好をして座っていた。
まぁ、医者っぽいっていうか、医者そのものなんだけど。
「おお? どうした? こんな所で会うだなんて奇遇だね」
いや、街で会ったのならともかく、あんたの病院で会ってるんだから、奇遇な訳ないでしょうに。
この先生は、既に酔っぱらってんじゃないのか?
本当に、この病院で良かったのか?
そんな思いが脳裏を過る。
「うははは。冗談だよ、冗談! んで、どっか痛めたのかい?」
へいへい。
冗談だってのは、分かってますよ。
本気で言ってたら、逆に先生に医者を勧めるところですわ。
「昨日、酔って階段から落ちたらしいんですよね」
「らしい?」
「いや、覚えてないんですよ」
俺の答えに、何やら真剣な表情になる先生。
その後、先生は手足に痺れはないかとか、何処が痛むのかとか詳しく訊いてくるので、こちらも真面目に答えて行く。
レントゲンを撮ったりと、結構真剣に調べてくれているようだ。
酔っぱらった姿しか見た事のない人だったんで、真面目に診察してくれる姿は、少し不思議な感じがする。
結局、骨折などをしているという事もなく、一安心といったところらしい。
「首が鞭打ちと腰の捻挫だね。コルセットとか別料金になるけど欲しい?」
そんな事を聞いて来る先生。
それって患者に聞く問題ですの?
普通は先生が決めるもんじゃないの?
「まぁ、うちの場合は欲しがる人には付けるって感じかなぁ。基本的に捻挫や鞭打ちってのは、安静にしてれば治るもんだしね。無理に動こうとするから、痛かったり、悪化したりするんだよ」
黙ってコルセット付けさせて料金上乗せすれば良いのに、こんなに明け透けに言っちゃうとか、儲ける気はなさそうだなぁ。
ならば、俺の答えは一つしかないよな。
無しの方向でお願いしまっす。
ただでさえ、今日の仕事を休んじまって、給料が少なくなるんだ。
出費を抑えるに越した事はないってね。
「それじゃ、隣の部屋で若いお姉さんに、湿布を貼って貰ったら帰って良いよ」
ほう。若いお姉さんとな?
気になるワードに、何処となく引っかかりを覚えつつも、隣の部屋に入る。
結論から言おうか。
ぶっちゃけると若いお姉さんは居たよ。
先生よりかは若干年の若いお姉さんがな!
ってか、この人あんたの嫁だろうが!
あれか?
年下の嫁を自慢でもしたいのか?
でもな!
このお姉さん、どう見ても俺よりは20歳以上は年上だろうが!
三十路の俺よりも、20歳以上も年上の女性は、世間一般ではお姉さんにカテゴライズされねぇんだよ!
熟女どころか、完熟って感じじゃねぇか!
ちっとも羨ましくねぇよ!
そんな事だろうとは思ってたよ!
思ってても、裏切られた気分でやるせねぇよ!
こうして、俺は他称お姉さんに、湿布を貼って貰ってから帰宅した。
尚、思ったよりダメージは、デカかったらしい。
その後に、風呂に入ったところ、全身の腫れが熱を持ち、その後二日間に渡って高熱でうなされる羽目になりましたよっと。