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3. ユウコの場合

 ユウコの家は、この辺りでは珍しい一軒家だ。こう見えて、ユウコは案外いいとこのお嬢様なのだ。

 僕たちが座っているのは、ガーデンテラスに置かれた白い椅子。かたわらの白いテーブルには紅茶と、一人分ずつ綺麗に盛られた、手作りらしいフルーツゼリーが乗っている。夏休みの宿題をやりに来ました、と僕たちが挨拶した相手は、ユウコのお母さんじゃなくてお手伝いさん。昔から何度も遊びに来てはいるけど、ユウコのお母さんの姿は見たことがない。

「よろしくね」

 ユウコがプログラムをインストールしたのは、万能ロボットではなく、ドーベルマン型の警備ロボットだった。庭で何頭も飼われているうちの一頭。与えた本は森鴎外の『舞姫』。

 新しいバージョンでは、ウェブ上にある『舞姫』の感想文を検索して、そこから大きく外れないような感想を書いてくれるはずだ。

 ドーベルマンはしばらく黙っていたが、やがて口元のスピーカーから静かに合成音声を発し始めた。

「私はこの夏、『舞姫』という小説を読んだ。言わずと知れた名作である。しかし主人公である豊太郎は実にひどい男だ。誰にでもいい顔をしようとする余りに、愛する人を傷付け、ましてやその女性を放置して故郷に帰ってしまう、とんでもない外道だ」

 低く唸るような声でそう言われると、思わず腰が引ける。この場に主人公がいたら食い殺されているんじゃなかろうか。いや、ロボットだから殺しはしないか。いくら警備ロボットでも、人間にケガをさせてはいけないって原則は守るはずだし。いわゆるロボット三原則のひとつ、「ロボットは人間に危害を加えてはならない」ってやつだ。だからせいぜいサイレンを鳴らして警察に通報しつつ、落ちない蛍光塗料を吹き付けるくらいのことしかできないだろう。あ、でも、肉球は意外とプニプニしていて気持ちいいので、もしかしたらのし掛かって押さえつけることくらいはできるのかな。

 『舞姫』の主人公・豊太郎をひどい男だと断じる論調はウェブ上でよく見かける。ドーベルマンの感想文も、おそらくそれに沿ったものだろう。

「このエリスという女も実に見る目がないが、十六、七歳という年齢を考えれば仕方のない部分もあるだろう。とはいえ悔しくてならない。もし私がこの場にいたのならば、お嬢様を傷付けるような男などすぐにでも追い出してやれたのに」

 ぎろり、とドーベルマンが牽制するように僕たちを睨み付けた……ような気がした。いやいや、僕たち四人はただの幼なじみだってば。もし何かあったとしても、さすがに豊太郎みたいに、妊娠させた女性を裏切って捨てるような真似はしない。ジローだってケンイチだってそんなことはしないはずだ。ユウコだってやられっぱなしになるようなタマじゃない。たとえば他人から給食のプリンを奪うことにかけて、ユウコの右に出る者を僕は知らない。何度も取られたからよく分かる。僕だってプリンは好きなのに、ユウコは時に強引に、時に下手に出て……ああ、もう、思い出したら悲しくなってきた。卵アレルギーのジローはいつも喜んでユウコにプリンを献上していたけど、どうやらユウコは、簡単に手に入るものにはあまり価値を見出さないタイプらしかった。

「豊太郎の幼稚で残酷な性格に、気付いてやれる者はいなかったのだろうか。大臣に、友人に、恋人にと、豊太郎は誰にでもその場しのぎの発言をする。誰か一人にでも『ノー』と伝えることができていれば、最後の悲劇は起こらなかったはずだ。

 あるいは、エリスは薄々、豊太郎の虚言癖に気付いていたのかもしれない。それでも他に縋るべきものがないため、やむなく豊太郎を愛するふりをしていたのかもしれない。だとすれば実に哀れだ。だが、最も哀れなのは誰だろうか。私はエリスの腹に宿る子供ではないかと思う」

 お? あんまり聞かない展開になってきたけど、そんな内容の感想文でも見つけてきたのかな。

「ドイツで東洋人の血を引く子供として生まれれば、自らのアイデンティティに悩むこともあるだろう。また、エリスの母親に豊太郎が渡した金銭だけでは、いつまで子供を養えるか分からない。病の中にある母親からは、温かい愛情を望むことは難しいだろう。たとえ母親が正気に返ったとしても、果たして自分を裏切った憎い男の子供を、愛情たっぷりに育てられるのだろうか」

 ユウコは目を伏せ、じっと感想文に聞き入っている。その唇がわずかに動いた。

「……無理でしょうね」

 それは単なる、僕の聞きまちがいだったかもしれない。

 けれどその言葉は、胸の奥にラムネのビー玉が入り込んだかのような、奇妙な息苦しさを僕に感じさせた。

「もしエリスが豊太郎の虚言に気付きながら、容易に想像できる未来の悲劇を看過したのならば、エリスもまた許し難い女だ。少なくともエリスは、この信頼ならない男との間に子を設けるべきではなかった。いくら何でも、エリスがそれほど浅はかな女であるとは思いたくない。

 しかしここで、私は新たな可能性に思い至った。もしかするとエリスは、豊太郎の虚言にも、その内心の軟弱さにも、とうに気付いていたのではあるまいか。しかしそこで、豊太郎はきっとエリスを選ぶだろうと根拠のない夢を見る代わりに、彼に自分を選ばせるよう、能動的に動く決意を固めていたのではあるまいか」

 ん? どういうことだ?

「エリスが勤勉な読書家であることは本文に記述されている。豊太郎と接するうちに、多少なりとも日本語を覚え、また日本について学んでいたのではなかろうか。豊太郎が逃げても、東の果てまで追いかけるという決意があったとすれば、エリートである豊太郎の子供を産むことに積極的になったとしてもおかしくはない」

 えっと……つまり、捨てられたらストーカーになろうと決意したってことか!

「この仮説を裏付ける事実がある。エリスのモデルと言われる女性エリーゼ・ヴィーゲルトは、森鴎外のベルリン留学時代の恋人であり、鴎外の帰国後に彼を追って日本までやって来たというのだ」

 あ、本当にストーカーだったんだ。それは知らなかった。

「私も警備ロボットとして、対象を追うことにかけては自信がある。それゆえに、海を越えてまで鴎外を追ったエリーゼには共感できるし、その生き方には同じ女性として憧れる」

 ……こいつメスだったの!?

「実のところ、エリーゼをモデルにしたエリスもまた、強い心を持つ追跡者だったのではあるまいか。小説はエリスの病で終わっているが、彼女はもしかすると案外すぐに正気付き、前向きな気持ちで子供を産んで、日本に渡り豊太郎にその存在を認めさせたのかもしれない。あるいはそもそも、エリスは病になど倒れていないのかもしれない。あのパラノイアが、豊太郎による堕胎の提案を阻止し、生活費と養育費を受け取るための演技であったとすれば、この物語はエリスとその子供の大いなる勝利と言えるだろう。

 この可能性が信じられないと言うのなら、小説のタイトルを確認してみるがいい。

 エリスは舞姫――すなわち、プロの女優なのだ」

 原稿用紙五枚に及ぶ感想文を吐き出し終え、ドーベルマンは堂々とした様子で座っている。

「女優……か」

 ドーベルマンをいたわるように撫でながら、ユウコはぽつりと呟く。

「それが真実なら、エリスはきっと、本当に子供を愛していたのね。……私の――も、もしかしたら……」

 何だろう? よく聞こえなかった。

 でもなんとなく、聞き返しちゃいけないような気がした。



「なあ、やっぱり、これじゃちょっとそのロボットらしさが足りなくないか? これならオレ、最初のやつが一番……好き……」

 ケンイチがぎろりとジローを睨んだ。確かに、他人事として読むなら『走れメロス』が一番じゃないかと思う。でも『浦島太郎』にも『舞姫』にも、それぞれのロボットらしさが充分に出てたんじゃないだろうか。

 たとえば、あの『舞姫』を聞いてからユウコは変わった。時おり、なんだか悟ったような優しい笑みを浮かべるようになったのだ。無邪気な暴君が妖艶な小悪魔に進化したような、そんな変化。気付いているのは、いつもユウコに虐げられている僕くらいのものだろうけど。

 『舞姫』ほどの作品になれば、感想なんてウェブ上に星の数ほど転がっている。けれどたぶん、あのドーベルマンは、ユウコのことを思ってあの筋書きを選んだのだ。そこには、僕の知らない、知るべきでないユウコの事情が絡んでいるのだろう。

 ロボットは賢い。きっと、僕たちが思っているよりもずっと。



「やっぱさあ、何事も経験だって。それがないから没個性に感じるんだよ、な!」

 ジローが力説している。いや、どの感想文も、没個性とは言い難かったような……。

 しかしよく考えてみれば、僕の時もユウコの時も、ジローはポカンとした顔をしていた気がする。……さてはこいつ、文学的な余韻を味わうのが苦手なタイプだな!?

「チューニングすんのは構わねえけど、今度はお前んちのロボットでやれよ?」

「分かってるって!」

 お気楽な調子で、ジローはピッと親指を立ててみせた。

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