ジュケンセンソウ
僕の計画は完璧だった。
彼女の名前は立石紗織。僕と同じクラスの3年G組の18番。
身長、体重は平均よりやや細身で、
容姿はつりあがりながらも大きな瞳が印象的であった。
透き通るような白い肌と、誰も寄せ付けないようなペルシャ猫を思わせる風貌、
そして態度。
学校でも成績トップを誇る彼女は、僕のライバルだったのだ。
新教大学政治経済学科。
倍率は毎年約7倍を超える程のいわゆる難関大学と言われる大学。
進学校と言われる僕の学校でも受ける人数は多かった。
受ける人数が多いのなら、なぜ彼女だけを目の敵にするのか。
その理由は明確だった。
僕の名は荒川亮二。
クラスではあまり目立つわけでもなかったが、成績は総じて5番以内に入っていた。
学期末に配られる紙切れしか、僕にステータスはなかったのだ。
父親は政治家、母親は元銀行員というテレビなので俗に言うエリート家庭の子供であった。
そして5歳上に兄がおり、彼も新卒3年ほどの少ない年数だが保険会社で管理職を勤めている。
運動の成績もよく、幼稚園の頃からひとつひとつの成績をよく比べられいつも劣っていた僕は、
「お前は何も頑張っちゃいない」と父親にニコチンの匂いがする唾を吐きかけられていた。
今通っている高校の付属中学を受験し、
僕は兄の落ちた新教大学の合格を勝ち取れるよう、
高校1年の頃から部屋にこもりがちで勉強をはじめた。
そして2年の最初の模試ではB判定をとり、順調に道を進めていくはずだった。
そのはずだった。
「荒川くんは、静かでも私は十分すごいと思う。
将来どうなりたいなんかは、決まってなくてもいいのよ。
ひとつの目標にむけて、必死に頑張ってね、約束だよ」
彼女は母のようであり、天使のようであり、女神のようだった。
厚い扉で閉められたカウンセリングルームには、
だいたい火曜日と金曜日に「今日は新堂先生」という、
ピンク色の札が下がっていた。
初めて予約のダイカットメモを書いたあの日から、
彼女が待つそこへかかさず行った。
薄い紅茶色の髪にゆるいパーマをかけた彼女は、
いつも僕にほほ笑みかけてくれた。
その笑顔が、仕事のために作られたものでもよかった。
その笑顔が、冷たい視線を浴びせるクラスメイトで囲まれた暗闇の中でのわずかな光であった。
たとえ彼女の正体が悪魔や詐欺師だったとしても。
家族に対する鬱憤や不満、最近読んだ本、そして一人暮らしする先生が飼っている三毛猫の話。
7限が終わり、窓が茜色に染まるまで、僕たちは他愛のない話をした。
彼女の声は、耳元をなでるように優しく、細い指先が僕の髪を触った時にはどくんと胸が躍る。
それが中毒のようにくせになって、受験期に突入した12月までカウンセリングルームに通い詰めた。
最後の模試の結果は、E判定。
父と母は成績データを机の上に叩きつけた。
スーツを着て偉そうな顔をしてテレビに出ていた父は僕に拳をかかげた。
母は逃げるようにして部屋を後にした。
その出来事が睡眠時間を2時間ほどに削り、毎日毎日机に向かった。
今は会えない、先生の笑顔と合格の約束を胸の奥で何度も唱えながら。
過去問で好きだの愛してる、結婚しようなんて言葉が出てきたときには、
涙が頬を伝っていたこともあった。
だが、決してこの意思はまったくぐらつくことはなかった。
そして1月に入り、
学校の一般入試の書類に新教大学政治経済学科の受験日程と、
整った楷書の字で書かれた立石紗織の字に目を疑った。
立石紗織は推薦で地元の女子大に受かったという話も女子の会話からなんとなく耳に入っていた。
じゃあ、なぜ彼女が新教大をわざわざ受ける必要があるのか。
それはどうせ、僕の両親が好きな「知名度」「ネームバリュー」という言葉に踊らされているだけだろう。
そういう理由で受験する人間に腹が立った。
彼女の容姿が高嶺の花のように美しく、
無愛想ながらも周りの人間に囲まれ楽しく暮らしている姿にも腹が立った。
運動も勉強も、常にトップクラスにいて人となんか比べられたことがないような様子にも腹が立った。
彼女の多くの部分が兄と重なり、
憎しみとなり胸の奥からあふれだしてきた。
できるものなら、彼女を今にでも殺してみたいとさえ思えるぐらい、
妬ましかった。
そして、当時の僕では実際の試験で勝てる自信は全くなかった。
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しかし、今の僕では彼女を落とせる。
僕は閉じている答案用紙をにたにたしながら見つめていた。
もうじき、彼女が驚き泣きむせぶ声が聞こえてくるだろう。
「なにこれ!私…私こんなことしてないじゃない…
離して、離して…試験受けさせてよ、
いやだ、離せって言ってるでしょ!」
午後3時、突然響いた彼女の甲高い悲鳴で試験場は騒然とした。
僕は口を手で覆い高笑いをこらえながら、
彼女と試験官が会場から出ていく足音を、満足感に浸りながら聞いていた。
2列目をはさんで前側の席に取り残された立石紗織のリュックには、
今朝バスの中で僕は彼女に、
「今日は頑張ろうね、立石さんとあまりしゃべったことはないけれど…一緒に受かるといいなって僕も思ってる」
と大嘘をついて手渡した利尿作用を増倍させたお茶のペットボトルがむきだしになっている。
そして、午後3時に政治経済の試験が始まる時、
彼女がトイレから座席に帰ってきてペンケースから出した消しゴムは、
試験のヒントとなるいくつか言葉が書かれていた、
見覚えのない消しゴムだった。
この消しゴムは僕が作ったもので、
彼女がトイレに並んでいる時に僕が作ったそれとすり替えたのだ。
まったく、可笑しくて仕方がなかった。
人間はこんなにも簡単に騙されて、
こんなにも簡単に人生が狂っていくなんて思わなかったから。
「では、解答を始めてください」
一連の騒動が終わり、机の上の時計が3時5分を指した時、
会場の受験生は一斉に問題を解き始めた。
予想したよりも簡単に、鉛筆はマークシートの上を滑り始める。
これで、やっとやっと、兄の上に立てるんだ。
父親に蹴ったり殴られずに済むのだ、母親にも笑顔で生活してもらえる。
先生との約束だって、きっと果たせる――――――――。
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試験が終わって会場を出るとき、
あまり人がいない北門側と通ると、
恋人同士で付ける小さなクマのぬいぐるみをつけた、
見覚えのある黒いリュックの上に座り込みながら、
裸になったもみの木の裏側に隠れて立石紗織は電話していた。
その声はやはり泣いていて、今までピンと張っていた印象が強かった背中も小さく丸まって、ブルブルと震えている。
僕はほくそ笑みながら彼女の悲痛な声に耳をすました。
「しんちゃん、本当にごめんね。私、しんちゃんと大学合格するって約束してたのに、やらかしちゃった。浪人するから、次東京行けるまで、最低あと1年かかるかな…本当に、本当に…ごめんなさい」
「本当はしんちゃんに会いたい、今すぐにでも声ききたい…たすけて」
「しんちゃん…今までずっとひとりぼっちで勉強するの辛かったんだよ。
現代文の過去問解いている涙が出たんだよ」
立石紗織は、恋人に電話していた。
大学合格を約束した、遠い場所で暮らす恋人と。
彼女の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
意思が、どうしようもなくぐらついた。
あれほど憎かった相手に、目眩がするほど共感している自分がいる。
逃げたい、姑息な手を使ったどうしようもない僕の姿から逃げたい。
こんなんじゃ、合格してもあの人に見せられる顔もない――――――。
僕は、駅に向かって市街地を駆け抜けた。
真っ赤な予備校の看板さえも、さっきの彼女の泣き顔に見える。
もし僕が新教大学に受かったとしても、
これからも恥ずかしい人生を送ることになる。
忙しく週末を走る車の中に身を投げたかったのに、
実際に踏み出す勇気なんてない、ちっぽけな18歳の僕がいた。
僕はこの日、一生分の後悔をした。
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卒業式に、立石紗織は出席しなかった。
僕は合格通知を新堂先生に見せられず、担任だけに報告すると
「お前が中学生のころから地道に頑張ったからだ、おめでとう」
と細身のスーツ姿で頭を下げていた。
両親と式の帰りぎわ、廊下で新堂先生とすれちがったが、
僕は何も言わずに通り過ぎる。
一瞬強い風が吹き、振り返ると彼女が桜の花を頭につけて、
あの日のままの笑顔でほほ笑み、僕を優しい声で呼んでいる。
「荒川くん、卒業おめでとう」
もう二度と振り返らなかった。
彼女にまだ憧れ続けていたのも事実だった、けれどそれ以上に、自分のだけのために人を貶めた弱い自分と向き合いたくなかった。
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2014年 3月
僕が新教大学を卒業して証券会社に就職した今でも、
彼女のペルシャ猫のような卒業写真は、
僕を一生かけて呪うように見つめている。
高校の卒業式の二週間後から彼女は、
閉ざされた病院に入院しているらしい。
今年も東京の町の窓辺から見える八重桜が、
今現在の僕と、弱い18歳と向き合わせている。
『ジュケンセンソウ』
あとがき
2014/2/10再構成、誤脱字修正いたしました。
ざっと読んでみると同じ言葉の連続が多い。
当時は私も受験まっただなかで書いたので、どたばたしている文章になってしまったと反省しております。
この作品はもともと創作をはじめた小学生の時から、
小説を書く上においてあまり三人称を使わないことに特化して、
「完全自分語り」で手掛けた小説です。
人間、恋愛を経験すると、不満ばかりを抱えて自己中心的になりますよね。
その感情の追加要素として、主人公のずるがしこい性格を加えてどろどろぐちゃぐちゃに仕上げました。
私自身も書いた当時受験生で、周りの推薦で合格した友人達を祝福する一方、
自分は一人でも机の上で勉強しなきゃ、という使命感に追い込まれていました。
あの一年間の葛藤は、この先何があっても一生忘れられませんね。
一度受験を経験した方なら共感していただけると思います。
この小説にも私が感じた自己嫌悪感や嫉妬といった感情がうまく表現できていたらいいな、と思っています。もちろん、主人公のようなせこい行為はしていませんが。
それでは、ここで一旦筆を置かせていただきます。
お気軽に感想やご指摘を頂けると光栄です。
追記
啼鳴こあさん、ご指摘ありがとうございました。
誤脱字はもともと多い傾向なので、より一層気をつけます。