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ロディは翌日の午後、スクールバスから降りてきたレイに声をかけた。
「俺、子犬を拾ったんだ。でも、うちのパパは犬嫌いなんで飼えないんだ」
レイは少し興味を持ったようだった。
「へえ。どんな犬? 何処に置いてあるの?」
「茶色い可愛い犬だよ。三匹いる。ほら、お前の家の近くに誰も住んでない屋敷があるだろ? あそこの物置小屋に隠してあるんだ。一応、クラスの連中にも声をかけてるんだけどお前も見るか?」
「見たいな。でも飼えないけれど構わないか?」
「もちろん。今夜見に行くんだけどいいか」
「いいよ。まだ母さんも帰ってきていないしね」
「それじゃあ、九時にあの屋敷まで来てくれよ」
「分かった。何か餌になるものを持っていくよ」
ロディは何も言わずにレイを見送った。
――少し気がとがめるが彼はヴァンパイアだ。俺が罪に問われることは何もない。
午後九時。月の無いどんよりと曇った空から雪が舞い降り始めた。ロディは灰色のPコートを羽織って門の前に立っていた。屋敷の裏にはハンターのワゴン車がひっそりと停車している。こっそりと部屋を抜け出てここに来るまで、ロディは誰かに見られないかとびくびくしていた。子供がヴァンパイアを見つけた場合、直接ハンターに報告することは許されていない。金銭のやり取りが伴う場合が多いからだ。そういう場合は親か先生に報告することになっている。例え相手がモンスターでも、それを子供が売る行為はモラルに反するとかいうものらしい。馬鹿らしい、とロディは思う。ファックとかプッシーとか「汚い言葉」を咎めたり、暴力シーンをテレビ番組からカットするのと同じくらい馬鹿らしいと。
「やあ、ロディ。待ったか?」
これから何が起こるのかまったく知らないレイは黒いコートにグレーのコットンパンツでロディに微笑みかけた。手には紙袋を持っている。
「いや。早く行こうぜ」
ロディは錆び付いた鉄の門扉を押し開けて先立って歩いていく。物置に着くと木の扉を開け、先に中に入った。広い物置の中にはランタンが置かれ、部屋の暗い隅には埃のかぶった古い木の箱が無造作に積まれている。ドアを片手で押さえたままロディはレイを中に通した。
レイはしばらく辺りを見回していたが、やがてちょっと惑った顔でロディの方を振り返った。
「子犬は何処にいるんだ? それに……この臭いは犬じゃない」
「正解だ。ヴァンパイア」
そして、間髪をいれず鋭く軽い発射音。
レイははっとして前を見た瞬間、腹を押さえて呻き声を上げた。
全身を震わせてどうにか立っているレイ目掛けて、また二発の矢が発射され、彼は叫び声を上げて膝から崩れ落ちるようにその場に倒れた。紙袋が手から離れ落ち、中の缶詰がひとつ、ロディの足元まで転がってきた。ドッグフードだ。
「ロ……ロディ……どうして」
痛みに顔を歪ませながらレイはロディを見た。その顔は怒りよりも深い悲しみに満ちていた。
「ほう。まだ口が利けるのか? なかなかタフな奴だな。それに可愛い面してるじゃねえか。ここで杭を打とうかと思ったが、連れ帰って一晩楽しむとするか。ああ、ぼうず、約束の十ドルだ」
男がニードルガンを手に持ち、前方の荷物の蔭から出てきてロディに金を渡すのを、レイは荒い息をしながら放心したように見つめていた。さすがにロディは後ろめたい気分になったが、もう後戻りは出来ない。
「友達……だと思ってたよ、ロディ」
「友達だって? ふざけんな、化け物!」
男は横たわったレイの腹を強く蹴飛ばした。身体を九の字に曲げて呻くレイに男は下卑た笑い声を上げる。そしてレイの手と足を頑丈なロープで縛り上げた。
レイの呻く顔を見ているうちにロディはいつの間にか勃起していた。レイが顔を歪めて苦しげに呻けば呻くほど、身体中が耐え切れないほど興奮してくる。男はそれに気付いたのだろう。にやにやしながらロディにこう言ったのだ。
「やりたいんだろう? ここでこいつをやっちまっても構わないぜ。俺がしっかり見ててやるからよ!」
ロディは何も言い返すことが出来なかった。男はロディを見て軽蔑したように鼻を鳴らすとレイの足を持って引き摺りながら外に出て行った。レイはドアが閉まるまでずっとロディの顔を見続けていた。その表情に一瞬、憐れみを感じ取ったロディは思わずレイの顔を蹴りそうになり、かろうじて思いとどまった。やがて車のドアが閉まる大きな音とエンジン音が聞え、その音はゆっくりと遠ざかっていった。
これでいいんだ。俺はいいことをしたんだ。ロディはその言葉を呪文のように自分に言い聞かせ続けた。
翌日、当然のことながらレイは学校には来なかった。先生は急に引っ越すことになったと言っていたがたぶんハンターの方から学校に連絡があったのだろう、とロディは思った。
地元のハイスクールを卒業後、ロディは家を出て、ポートランドにある中堅の銀行に就職し、数年後に結婚した。以来、子供はできなかったが、数十年の間、特に問題もなく過ごしてきた。一年前、妻が病死してしまうまでは。常にロディを蔭から支えてきてくれた良き妻を亡くし、ロディは途方にくれてしまった。定年を待たずに銀行を辞め、行き先も決めずに車を走らせて放浪することが多くなった。半年後。ある街でふらりと飲みに入ったバーで、ロディは金髪碧眼の青年に誘われた。そのことが彼が長年、心の奥底に仕舞い込んでいた欲望を引きずり出してしまった。
ホテルに誘い込まれ、ベッドに入ったロディはどうしても男とセックスすることが出来なかった。詫びを言い、金を払わずに出て行こうとした彼を青年は口汚く罵り、嘲笑った。激昂したロディが気が付くとネクタイを首にきつく食い込ませ、口をだらしなく開け、舌を出して絶命している青年が目の前に横たわっている。その苦しげな表情に勃起したロディは死体を犯した。それは今までに感じたこともないようなエクスタシーを彼にもたらしたのだ。それからはだいたい二ヶ月おきにひとりずつ、絶対に証拠を残さないように慎重に殺人を続けた。事件はニュースにはなっていたが、自分は絶対に疑われていないという自信をロディは持っていた。
トイレから戻ってきたベルはロディと共に店を出た。道行く人々はベルの姿を見て我知らず感嘆の声を上げる。誰もロディを見ようとはしない。今夜はいい夜になりそうだと思うと、ロディは自然に笑みが零れてきた。ベルはロディを振り返ろうともせず、早足で歩き続け、やがて狭い路地に佇む古びたホテルの前で立ち止まった。フロントで格子窓の向こうに声をかけ、差し出された鍵を受け取ると正面にある階段を足取りも軽く登っていく。ロディはさりげなく辺りを見回した。やはり監視カメラは付いていないようだ。三階の角部屋の鍵を開けて中に入る。小さなテーブルと椅子以外はベッドしかない殺風景な部屋に入った途端、ベルはロディの顔を見つめて妖艶な笑みを浮かべ、ゆっくりとシャツのボタンを外し、脱ぎ捨ててベッドに腰を掛ける。裸の胸に銀の十字架のネックレスだけが輝いて見える。
「料金は前払いっていっただろ? 早くよこせよ」
足を組んで右手を差し出した彼にロディは歩み寄り、いきなり横面を平手打ちにした。
「な……! 何するんだ!」
ベルは顔を押さえてそう叫んだが、その表情には明らかに怯えがみえた。
「貴様、誰でも自分の言うことに従うと思ってるんじゃないのか? え?」
ロディはポケットからナイフを取り出し、ベルの髪の毛を鷲掴みにして押し倒し、顎に刃の切っ先を軽く当てて素早く横に引いた。赤く引かれた筋からルビーみたいな血の玉が滲み出してきて、ベルは恐怖に身体を硬直させて今にも泣きそうな顔をする。
「お……お願いだよ。殺さないで。金はいらないから」
「そうか、いい子だ。殺しゃしないさ。俺のプレイに付き合ってくれればな」
ロディはロープでベル自身に自分の足を縛らせ、両手を手錠でベッドの桟に固定した。
ベッドに磔にされたベルの全身が震えている。
「ベルか。『美女と野獣』だな。いいねえ。残念ながら俺はただの『野獣』で王子様じゃないけどな」
「あ……あんたまさか、あの連続殺……」
「さあね。いいか、もう口を利くな。ぶん殴るぞ」
ロディはベルの身体に跨るとナイロンの硬いロープを首に巻きつけ、両手でしっかりと握り締めた。目を大きく見張って自分を見つめるベルの顔があの時のレイの顔と重なった。官能的な、だが憐れみを含んだ表情。
――畜生!
ロディは一気にベルの首を締め上げた。大きく口を開け、全身を痙攣させて必死で逃れようとする虚しい抵抗。やがてその抵抗が弱まり、身体の力が抜けて動かなくなってもなお、首を絞め続けた。念のために数分間鼻に手を当てて息が止まったことを確認し、ようやくロープを外した。ぐったりと横たわったベルを満足げに見ながら、ベッドから降りて椅子に腰掛ける。かなり疲れた。やはり年には勝てない。こいつを犯すのはもう少し後にしよう。ロディは目を瞑った。
――夢に出てきたのは俺のママだ。ママは金髪で青い目で、そういえば俺とはちっとも似てなかった。小さい頃は寝るときには必ず部屋に入ってきてベッドの横で本を読んでくれたし、俺の頬に優しくキスをしてくれた。でもママはいつの頃からかパパが出張している時、必ず別の男を家に連れてくるようになった。温厚なパパと違って無作法で、いやらしい奴で、いつも俺が見ていたアニメを野球中継に変えてしまって、食べ物を豚みたいに貪り食う。身体からはいつも犬の糞みたいな嫌な臭いがした。俺はそういう男といちゃついているママが嫌いだった。――仲良くしなさい。いずれはパパになる人よ―― どうしてだよ、ママ。そんな男の何処が好きなんだよ。パパの何処が気に入らないんだよ。どうして寝室の扉を閉めないんだ。俺みたいな子供にそんな痴態を見られても平気なのか? ねえ、ママ。いったいどうしちゃったんだよ、ママ。結局、俺が十二の時にママはその男と家を出て行った。
「いや、だから早く来てくださいよ。そっちは別の奴に任せればいいじゃありませんか。いつまでここにいさせるつもりなんですか。……ロディですか? 奴なら居眠りしてますよ。それから、そこにデビィはいますか? 替わってください。ああ、デビィ。家に戻ってスカーフ取ってきてくれよ。首のロープ痕が酷くてこれじゃ食事にいけないからさ。文句言うなよ。俺だって渋々受けた仕事なんだから」
――誰だ? 誰が喋っている?
ロディは慌てて目を開けた。いつの間にか居眠りをしていたらしい。急いでベッドの方を見たロディは死んだはずの男が携帯を持ってべッドに腰を掛けているのを見て、絶句した。ベルはペールブルーの瞳でロディの顔を見るとにやっと笑った。すでシャツを着込んだその首筋には紫色のロープの痕がしっかりと残っている。ベッドの桟は壊され、手錠は両手首にぶら下がったままだ。
「お目覚めのようだね。ロディ。久しぶり」
――まさか!
「何を驚いてるんだ? 俺だよ、レイだ。懐かしいなあ。ずいぶん年を取ったじゃないか」
「どうして生きてるんだ? それになぜここにいる?」
「どうしてだって? ああ、ちょっと待って。それじゃあ、また後で連絡するよ、デビィ」
レイは電話を切ると、ロディの顔をまっすぐに見つめた。
「あの時のことか。いや、大変だったよ。奴、自分が抑えられなくてさ。三十分も走らないうちに車を止めて俺に襲い掛かってきた。だけど、あの日俺が屋敷の前に立っているのを仲間の女性に車で送ってもらった母が見つけてね。不審に思った母はやがて屋敷から出てきたワゴン車に俺の匂いがするのに気が付いて後を追ってきてたんだ。奴は俺の目の前で母と仲間に襲われて八つ裂きにされたよ。お前が想像したようなことは何も起こらなかったんだ」
――こいつ、本当にレイなのか?
「信じられないか? まあ、信じたくなければそれでいいさ。俺はこの仕事を友人の私立探偵を通じて頼まれたんだ。じゃなきゃストレートの俺がこんなことしてるわけないだろう。連続金髪男娼殺人鬼。今までに三人が犠牲になっている。いずれの犠牲者も金髪碧眼。証拠はほとんど残されていないが、首を絞めて死姦する犯行の手口は同じ。性交時にコンドームを使ってるので精液からのDNAの採取は出来なかった。三番目の事件でバーに現れ、犠牲者と出て行った初老の男が飲み代を払う時に落とした名刺の名前を、拾った従業員が覚えていた。ロディ・マクドナルド。覚えていて当然の名前だよな、ロディ。全ての州で初老の同名の人物の行動が調べられた。そして一番条件が一致するのがお前だった。もう何週間も前からお前には尾行が付いてたんだ。だから、お前が三日前にこの街にやってきてゲイの集まるバーに立ち寄った時には捜査陣は一気に色めき立った。次の犠牲者が出る可能性は極めて高いし、囮を使うのも危険を伴う。だから俺に白羽の矢が立ったってわけさ。なあ、俺の男娼の演技、なんとか様になってただろ?」
パトカーのサイレンの音が遠くから聞えてくる。
「どうして……どうして警察は貴様をハンターに引き渡さないんだ?」
「警察の担当は人間の犯罪者だ。お前みたいに罪もない一般市民を殺したりしない限り、ヴァンパイアをハンターに引き渡したりはしないさ」
「黙れ! 化け物!」
ロディはテーブルの上にあったナイフを掴んで、レイに襲い掛かったが、座ったままレイが素早く振り上げた足先が下からロディの顎を見事に直撃した。床に倒れ、苦しげな呻き声を上げるロディをレイは呆れたように眺めている。
「痛いか? 俺はもっと痛かったぞ。お前は殺しても飽き足らないほどの奴だけど、俺の仕返しはこれで終わりだ。もう足掻くのは止めとけよ。お前の犯行の様子はしっかり隠しカメラで録画してある。しかし驚いたよ。名前と顔写真を見せられた時に四十年前の面影が残っていたから、すぐにお前だと気付いたんだけれど、まさか殺人犯になっていたなんてね。ああ、そろそろご到着かな」
サイレンの音がホテルの前で鳴り止んだ。
「お前のせいだ。お前と会わなけりゃこんなことにはならなかった」
吐き捨てるようなロディの言葉にレイはふっと悲しげな表情を見せた。
「俺は今、男の同居人と暮らしている。でも、二人ともゲイじゃない。お前はもともとゲイだったのに気付いてなかっただけさ。それは恥ずべきことではないけれど、あの時代は今と違ってゲイの肩身が狭かったし、俺もお前のことがよく理解できなかった。そのことは申し訳ないと思ってるよ。けれど、お前の心の奥底にあった本当の欲望はもっとずっと邪悪なものだ。俺は確かにお前の欲望の引き金を引いたのかもしれない。でも、もし俺と会わなくてもきっと別の誰かが引き金を引いていただろうな」
レイは放心したように彼を見つめているロディからドアに視線を移す。階段を駆け上ってくる複数の足音。
「お前と友達だった頃は本当に楽しかった。そのことには感謝してる。お前に裏切られてからずっと人間を信じられなかったけれど、今はいい友人も出来たし、時代は少しずつだけど変わってきている。だからもうお前を恨んではいないよ、ロディ」
レイは立ち上がって窓に歩み寄り、しばらく外を眺めてからそっと目を瞑った。嫌な想い出を封じ込めようとするかのように。
「さようなら、ロディ」
ロディはドアが勢いよく開いて、銃口が一斉に自分に向けられるのを醒めた目で捉えていた。
――おい、モンスターはもう一人のほうだぞ。あいつを撃て。撃ち殺せ。俺は人間だ。俺は……俺……は?