月下のいざない
駅へと続く、道。
通勤途中の、いつもの風景を追い越しながら、青年は自転車を走らせていた。
木下 清二。二十五歳。入社三年目。
知らない街での一人暮らしにも慣れて、お気に入りの場所もいくつか見つけた。
駅に近づいたら、脇道に入る。駅前の交通量の多さに辟易して、初めてこの道を選んだのは一か月ほど前だった。今では、日課になっている。
駅の近くなのに、驚く程の敷地面積を持つ家の敷地内に小さなカフェが見える。ドライフラワーをあしらった、洒落たウエルカムボードには『CAFE 百日花』の飾り文字が躍っている。
入口を飾るツルバラのアーチが印象的だ。店の奥には広い庭。色とりどりの花々が咲き誇る花壇に面する空間にはオープンテラスが設置されている。
休日には、可能ならば彼女と一緒に訪れて、ゆったりとした時間を過ごしたいと思わせる、空間。そのような機会がなく――ありていに言えば「彼女」が無く、実現した事はないが。
聞いた話では庭の奥には温室があり、四季折々の植物を育てているらしい。
青年は、ちらりと腕時計を見る。出勤時間を30分程早め、ひと息いれるのが習慣になっている。
店の横の駐輪場に自転車を止めて、青年はアーチをくぐった。
扉を開けると、ちりんと、ベルが鳴る。
「いらっしゃいませ。おはようございます。木下さん」
いつもの、声。朝に相応しい爽やかな声だ。
いつもの席に腰をかけると、僅かにミントの香りが混ざった氷水が運ばれて来る。
白いサロンエプロンが似合う、女性。
「ママ」と呼ぶには若すぎる。でも「お姉さん」と呼ぶのも躊躇われる。だから、青年はこっそり教えてもらった名前で呼ぶ事にしている。
「おはようございます。蘭さん。いつものモーニングで」
待つこと、しばし。
湯気の立つチーズベーグルと、ミニサラダ、そして独自のブレンドだと聞く、香り豊かなホットコーヒーが運ばれて来る。
それらを楽しみながら、青年はふと一つの鉢を見た。
店主である花吹 蘭がとても大切にしている鉢だ。
その鉢の植物が蕾をつけた日の事を、青年は忘れられない。店主による大盤振る舞いの無礼講で、夜10時閉店まで、ビールを浴びる程飲んだ。
繰り返される「おめでとう」の言葉に、てっきり誰かの結婚祝いか退職祝いだと思っていたら――「今年も蕾をつけました、おめでとう」祭だった。
それほどまでに大切にされている株は、和名にして「月下美人」と呼ばれるものだ。
サボテン科の植物で、夜中に大輪の花を咲かせる事が名前の由来。
夜に花開き、そして朝日の前に萎れる。一夜の花。
それは、この店の女店主にとって特別な花なのだろう。ならば、一緒にその花の開花を見たいと、青年はこの数日間ずっと思っていた。
蕾は、かなり大きく膨らんでいる。今にも咲きそうだ。
「今夜あたり、ですか?」
青年の言葉に、
「そうですね」
女店主が嬉しそうに頷く。
「多分、今夜だと思います」
大きく膨らんだ蕾は、六輪。
多分、そのすべてが今夜、花開く。
その姿を想像しようとすると、何故か女店主の笑顔が浮かんだ。
青年は、恥ずかしくなって首を振ってその妄想を消す。
若く美しい蘭は、朝の光の中ではまるで白い薔薇のつぼみのように清楚だと思うし、瑞々しさを感じさせる。だが、夜の灯りの中で見る彼女の魅力はまた、格別だ。どこか妖艶で、とても惹かれるのに手を出す事を許さない、そんな雰囲気を醸し出す。
一夜の限りの花は、そんな彼女を思わせた。
だから、楽しみにしていたのだ。この花が咲く夜を。
ベーグルをコーヒーで流し込み、清算を済ませると、青年は告げる。
「じゃあ、また夜に来ますね。月下美人を見に」
「あ、ごめんなさい!」
慌てたように、女店主が告げる。
「今日は、三時までなんです。だから、また明日」
「え? だって……」
それは、不意打ちだった。
花が咲くのを、とても楽しみにしてた。毎日のように大きくなる蕾を見続けていたのに。
あまりの不意打ちに、言葉すら出て来ない青年に、蘭はいつもの笑顔を向ける。
「じゃあ、行ってらっしゃい。木下さん。また明日」
その言葉に見送られながら、それでも納得が行かずに今にも開きそうな鉢を振り返ってから、青年は店を出た。
広い庭の奥にある、温室。
そこは、彼女だけの秘密の場所だった。
先代が趣味で集めて続けて来た、様々な植物が栽培されている。
先代が何を考えてこれらの植物を集めたのかは知らないが、家を継いだからには彼女には必ず行わなければならない儀式がある。その儀式を行う為に、先代に拾われたのだという自覚もある。
温室の一番奥に、それらは在った。
二十株ほどの、月下美人。それらのすべてに、大きく膨らんだ蕾が五つ六つはついている。
そう。今日は、特別な日。
上手に育てれば年に複数回花をつける品種だが、これだけの花が一度に咲くことなどめったにない。
そう。これは魔法。
一夜だけ、花をつける。今宵のこの時の為に。
濃厚な芳香が、立ち込める。
白い花びらが広がる時に「ポン」と小さな音を立てた。
続けて、隣の枝の花も「ポン」。
少し大きな木には、六輪の花がほころび、芳香がぐっと強くなる。
酔うほどに、濃い香り。
何かを狂わせるには、充分のその香りを胸いっぱいに吸い込んで、月の光に照らし出された、女のシルエットが不意に変わった。
(咲いたな)
(咲いたよ)
(おお、今年も咲いた)
闇に潜む有象無象たちが、たちまちに勢いづいた。
甘美な香りが、欲望を掻き立てて止まない。
たちまち、夜に沈んだ街の中から、それらは現れ、行進する。
今宵のみ、深い闇の中より月下に現れる。年に一度の甘露を得んがために。こんなにも芳しく、妖怪たちをいざなう香りに惹かれ、そちらに向かって続々と集まり始める。
先頭を行くのは、一つ目小僧と唐傘お化け、のっぺらぼうに、ろくろ首。可愛いところで、からす天狗に提灯おばけ。あとから来るのは、ぬらりひょんや青坊主、一角大王などの大妖怪。
その数は時を追うと共に増えて行き、まさに百鬼夜行の大行進と膨れ上がる。
ゆらめく妖気が街を覆い、迷い込んだ者は夢か現実かもわからなくなる。
(今宵限りの甘露ぞ)
(なんと、良き香りか)
(蜜も、たっぷりと溢れておろうぞ)
(やれ、楽しきかな)
浮かれながら、妖怪たちは、香の元へと導かれて行った。
「やっぱり、クローズかぁ」
照明が落とされた、喫茶店。
コンビニで夜食を求める帰りに未練がましく立ち寄ってみたが、やはり閉店している。
普段なら、二十二時までの営業で。「おやすみなさい、木下さん」を聞くのが日課になっていたので、少し残念だ。
一夜の花を、できれば店主と一緒に見たいと思っていたから、更に残念だ。
少し大きめのため息をついて、青年はもう一度名残惜しげに建物を見た。
確かに、店は閉まっている。だが、この濃厚な香りは、なんだろう。
空気の濃度が違うような、なんとも言えない濃密な気配。
ふと、背後で何かが舌打ちをしたような気がした。
なんだろうと、振り返る。
そして、凍りついた。
なんだ、これは。
坊主頭の小さな影を先頭に、道を埋めたいくつもの影。それは、人間ではない。
「なんだよ、割り込みはずるいぞ」
坊主頭が告げる。顔を見ると、その目は顔の真ん中よりやや上のあたりに、ひとつしかない。
その後ろに居るのは、和傘に手足が生えたもの。長い首をくねらせた女、顔のない男、入道のように大きなもの、猫の目を持ち二股に別れた尻尾を生やした少女、以下、人間でないものたちで埋め尽くされている。
「ほら、後ろに回れよ。おれたちは急いでるんだよ」
一つ目小僧が急かす。
「い、急ぐって? おい、何処へ行く気だ?」
この変な者たちが、もしもこの『百日花』に入るなら、何が何でも――そこまで考え、もう一度人ならざる者の群れを見て、唾を飲みこむ。
何が何でもは、いくらなんでも無理だな。出来れば……いや、出来そうもないけれど。とりあえずは、阻止しなければならない。そう思う事が出来た。
「この先は、通すわけには……」
青年の言葉は、哀れにも最後まで告げられる事はなかった。
なんとなれば、しびれを切らした妖怪たちが、青年を押しのけて――さらには、バランスを崩して転んだ彼を踏みつけて、『百日花』に殺到したのだから。
「花吹さん……蘭さん!」
青年の小さな悲鳴は、勢いを増す有象無象達の突進を止める力もなく。
だが。
「がっつくんじゃないよ! みっともない」
不意に響いた、まるでガラスのベルのような澄んだ声に、有象無象たちの動きが止まる。
弾き飛ばされ、踏みつけられた――もっとも、妖怪たちは全く体重を感じさせなかったが――衝撃で、なによりこの現実離れした光景の為、ほとんど意識を失いかけていた青年は、見た。
白い、美しい花が、そこに咲いていた。
月下美人。
それを思わせる、ひとだった。
月の下、凛と立つ。白いシルエット。
だが、よく見えない。有象無象たちが、わらわらと彼女に詰めかけたから。
「整列!」
女の声が響く。有象無象たちの足が、止まる。
そんな彼女は苦笑しながら、先頭の一つ目小僧の頭を軽く叩く。
その仕草はひどく優しくて。
「今夜は無礼講。と、言いたい所だけど、あんたたちには節度ってもんがないからね」
一つ目小僧は、金縛りにあったかのように動けない。
「姐さん。今宵も実に色っぽいこって」
唐傘おばけの傘が紅に染まった。
そのひとは、白い――ふわりとしたレースの、いやまるで一夜の花と同じように踝あたりまでの長さの白いスカートを身に着けていた。
そのスカートは腰のあたりで肌と同化しており、まるでそこから生えているようにも見える。
その上は、全裸だ。
ふくよかな乳房は無粋な布に覆い隠されることなく、月光に白く浮かび上がる。
そこそこのボリュームを持ちながら、重力に負けることなくぷるんと張ったお椀型の乳房。
鼻を押さえたのは、純情な一つ目小僧だった。
抑えた手の指の隙間から、ぽたぽたと赤い液体が零れ落ちる。
女は、大きく手を広げて、背後にある百輪あまりの白い花を指し示す。
「味わって良いのは、花びらと蜜のみ。そして、必ず受粉をしておくこと。これが、宴のルール」
くすんと、女が笑う。
「無粋だと、思わないでやっておくれ」
「とんでもありやせん。姐さん!」
そう言って平伏するのは、牛の顔を持つ鬼。
「おいら、姐さんに会えるのを、すごい楽しみにしてたんです!」
一つ目小僧が鼻血を吹きながら、一つ目小僧が女の白い足にすがりつく。
「うっとおしいんだよ。お前は」
足蹴にされて、一つ目小僧は恍惚の表情を浮かべながら弾き飛ばされた。
白い花弁を喰い、蜜を吸い上げる。その折に鼻についた花粉を、また別の株の雌蕊にすりつける。
宴は、いまや狂宴となりつつあった。
「どうやら、最後のようだね」
行列の最後尾に居た人間の存在に気づき、女は不思議そうに顔を見た。
そして、凍りつく。
「ら、蘭さん?」
「え、木下さん?」
女の頬が、かっと紅潮する。
その両手が、今まで全く気にしていなかった胸を覆い隠した。
「いつまで見てやがる、このドスケベ野郎!」
蘭の蹴りが、青年の顎にまともに入った。
それが、彼の最後の記憶だった。
「おはようございます。木下さん」
いつもの安息の場所を、おっかなびっくり通り過ぎようとしていた青年に、声がかけられる。
青年は自転車を止め、恐る恐る振り返った。
その人は、いつものように笑みを湛えて青年を見ている。
「お、おはようございます。ら……花吹さん」
その人を前に、脳裏に描かれるのは。
月の下、凛と立つその姿。
そして、胸を隠して恥じらう、あの姿。
「あの、蘭さん。昨夜のアレは……」
夢だったのでしょうね。
そう、続く筈だった。
最後まで、言えなかったのはただ、ぴくりと反応した後の「彼女」の空気が怖すぎたせいだ。
木下の前に、白い花が沈んだ瓶が置かれる。
「これは?」
蓋をあけると、つんとアルコールの匂いがした。
「昨夜は、甘露を召されなかったでしょう? ですので、代わりに差し上げます。昨年のものですので、新鮮さには欠けますが味に深みがあります」
青年の耳元に、女の唇が寄せられた。
「昨夜の事は」
吐息が、やけに熱く感じられる。
「他言無用で」
慌てて、体を離して女を見る。
女は、いとも妖艶な笑みを浮かべながら彼を見つめていた。
木下 清二。25歳。
容姿も普通で、仕事も普通にこなす、どこにでも居る会社員。
そんな彼が、ついうっかりと、もしかしたらとんでもない闇の世界に、一歩踏み込んでしまったのかも知れない。
そう思えた瞬間だった。
<了>
「花を小道具に」。
どうやら、私が得意な分野らしので、シリーズで書いてみようと思いました。
「月下美人」を使って綺麗な物語を描こうと思ったのですが、なんだか妙な展開に……
読んでいただき、ありがとうございました。