第三話
結局カンナギは抵抗らしい抵抗もできぬまま朝霧に連れてこられてしまっていた。
目の前に広がるのは、主に似て可憐でしとやかな雰囲気を放つ宮。
カンナギの腕をしっかりとつかんで離さない朝霧は、入口へと繋がる階を上ろうとはせず、その脇の小さな木戸に手をかけた。
カンナギの顔が真っ青になる。
「いけません朝霧様っ!私ごときが神泉苑に入るなど・・・」
「私がいっているのですからいいのですよ。それとも私に口答えするつもりですか?」
精一杯の反抗も一言で打ち消される。
でも。でも本当にダメなのだ。
ここ有明宮は、宮中で最も要所といわれる。朝霧様の宮であるからなのはもちろんのこととして、もう一つ理由があるのだ。
それは宮中の建物の下を流れる川、清御原川<きよみはらがわ>。それの湧き出る場所がここにあるから。
この川は閉塞し、停滞した作り物の世界の中で、唯一常に変化し続けるものだ。
地上より流れ込み、いずこかで地上に還ると言われている。
この川がなぜ重要かというと・・・金魚鉢を想像してもらいたい。水を変えなければ、水は淀み、いつかは金魚が死んでしまう。つまりこの川は閉鎖されたこの異界の浄化作用を担っているのだ。
この川が枯れるか汚れてしまえば大変なことになる。
だから有明宮の庭、神泉苑と呼ばれているのだが、そこは固く立ち入りを禁止されていた。
当然ただの<式神>である自分にとっては近寄ることさえ遠慮したいわけでーーー
「つきましたよ」
カンナギが現実逃避しているうちに源泉についてしまっていた。
とてつもなく目を背けたい。しかし、カンナギの目の前には確かに清い水がこんこんと湧き出る小さな泉があった。
よく見ればぼんやり薄青の光を発している。
それが周りの苔に映えて、この世とは思えない美しさだった。
目をそらすこともできず、それに見惚れる。
「カンナギ、手を浸してみて」
光りに惹かれる虫のようにふらふらとカンナギは泉の傍に近寄った。
屈みこんで、その手を浸す。
刹那、突如訪れた光りの奔流に、カンナギは抗うこともできずに飲み込まれた。
「---!--ーかんなぎ!」
自分の名を呼ばれたような気がして、カンナギはぼんやりと目を開けた。
なぜだか酷く気分がいい。まるで温かい水の中でゆらゆらと揺れているような。
「どうしました?御子」
ふいに女性の声がして、白い世界が色付き始めた。
目の前に描き出されたのは驚くほど美しい黒髪の女だった。
女であるというのに鎧をまとい背に弓を背負い、腰には剣を佩いている。そしてそれは女に似あっていた。
凛々しい姿はまるで武神か戦乙女のようだ。
「今日はーーーなんだ」
女の隣にひょっこり姿を現したのは、これまた見目麗しい男の子だった。
どこかしょげたような声で、女を見あげている。
女は苦笑した。
「御子は私がお嫌いですものね」
「だってーーーのほうが優しいし・・・」
どうやらこの二人は主従のようである。それに、男の子はかなり身分の高い人間のようだ。言葉とは裏腹に女に甘える姿は、王侯貴族のように優雅だった。
自分はいったいなぜこんな景色を見ているのだろう・・・?
その間にも主従の会話は続く。
「御子のお考えは正しい。私は優しくない。嫌われて当然です」
「そういう意味で言ったわけじゃ!」
「・・・いずれ御子も私がなぜ滅多に出てこぬのかを知るところとなりましょう。もうここに来られないほうがいい。母君に怒られますよ」
男の子の顔が泣きそうに歪む。
「じゃあ、いいよ。もう来ない!---なんていらない!」
そう言って走り去った男の子の後姿を、女は寂しげに見つめていた。
まったくわけのわからぬまま、カンナギの瞼は自然と落ちていく。なぜかとても眠たかった。
最後に聞いたのは、どこからか流れる水の音。