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哲学科助教授・我妻行人、異世界で我思う、故に・・・  作者: 深海周二


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第七章 我思う、されど、他者・・・

ソルウェンが去ってから、七日が経った。

その七日間、行人はいつも通り過ごした。テアと魔法の研究をして、エナと話し、ライナに何か言われ、ガランの家で本を読んだ。いつも通りのことを、いつも通りにやった。

しかし何かが、いつも通りではなかった。


気づいたのは三日目だった。

テアと魔法の研究をしていたとき、テアが「今日は観察の目が違う」と言った。いつも外側から見ている目が、今日は少し遠い、と。行人はその言葉を、そのときは流した。しかし夜になって、その言葉が戻ってきた。

遠い、というのは——外側に出すぎている、ということかもしれない。

行人はそれを最初、体の問題だと思っていた。疲れているのかもしれない。あるいは季節の変わり目で、この世界の気候に体が馴染んでいないのかもしれない。しかし一週間経っても、その感覚は消えなかった。


欲せられている、ということはわかる。

エナが毎朝来る。テアが毎夕話しかける。ライナが通りがかりに何か言う。それぞれの引力が、行人の周囲にある。それはわかる。

しかし「俺はここにいる」という感覚が、薄くなっていた。

薄くなっている、という言い方が正確かどうかわからない。ただ、以前はあった何かが、今は少し遠い場所にある、という感じだ。欲せられているのに、それが届かない。水を飲もうとして、手が届かない感じ。

行人はその感覚を、今のところ言語化できずにいた。


ある午後、エナが来た。

食べ物を持ってきたわけでも、用事があったわけでもなかった。ただ、行人がガランの家の前に座っているのを見つけて、隣に来た。

「何してるんですか。」

「考えています。」

「何を。」

「わからないことを。」

エナは少し笑った。

「それ、考えているって言いますか。」

「わからないことをわかろうとしているので、考えています。」

「ユキトさんって、ずっとそういうことしてますよね。」

「そうですね。」

「疲れないですか。」

行人は少し考えてから答えた。

「疲れることもあります。ただ、やめられない。」

エナはしばらく、行人の隣に座っていた。何も言わなかった。行人も何も言わなかった。村の音が遠くから聞こえていた。

「何か悩んでいますか。」

エナが聞いた。唐突ではなく、しばらくの沈黙の後から来た問いだった。

「悩んでいる、というより——考えています。」

「どう違うんですか。」

「悩むのは答えを探すことで、考えるのは問いを探すことです。今は問いを探しています。」

エナはその説明を聞いて、少し首を傾げた。

「問いを探す、というのは——答えがないと思っているんですか。」

「答えがないのではなく、どういう問いを立てるかによって、答えが変わる、ということです。」

「難しいですね。」

「そうです。」

「でも——」

エナは少し考えてから言った。

「ユキトさんは、難しいことを考えていても、ちゃんとここにいる感じがする。」

行人は少し止まった。

「ここにいる感じ、というのは。」

「話しかけたら返事してくれるし、顔を見ていると、考えているのがわかる。遠くにいる感じがしない。」

行人はその言葉を、しばらく受け取っていた。

エナがいる、ということはわかる。行人を気にかけている、ということもわかる。その気遣いが、温かい、ということもわかる。

しかしその温かさが、今日は少し遠かった。

行人はその距離を測りながら、ある思考の断片が頭に浮かんだことに気づいた。——エナが「ここにいる」と感じてくれるから、俺はここにいると思える。では、エナがいなければ。

その思考を、行人は即座に括弧に入れた。しかし今日の括弧は、入れた瞬間に、底が少し透けていた。


夕方、テアが来た。

魔法の研究の続きをしようとしたが、今日は二人とも、あまり言葉が出なかった。テアが魔法を使い、行人が観察する。その繰り返しを続けているうちに、テアが手を止めた。

「ユキトさん、今日おかしいですよ。」

「おかしい。」

「いつもと違います。観察してるけど、見えてない感じがする。」

行人は少し驚いた。テアが行人の状態を察知したことが、ではなく——見えてない、という表現が正確だったからだ。

「そうかもしれない。」

「何か考えてるんですか。」

「ソルウェンとの話の続きを、ずっと考えています。」

「どのあたりを。」

行人は少し間を置いた。どこまで話すかを、考えていた。

「デカルトは、自分一人で完結する哲学を作ろうとして、最後に神を必要とした。自分の外側にある何かを、必要とした。それは挫折として解釈することもできるし、あるいは——そこに、何か別のものを見ることもできる。」

「別のもの、というのは。」

「自己は、自己だけでは自己であることを保証できない、ということ。」

テアはしばらく黙った。

「それは——誰でも、そうなんですか。」

「たぶん。」

「ユキトさんも。」

「俺も。」

テアはその答えを聞いて、少し考えた。それから、静かに言った。

「私は、ユキトさんがいるから、自分の魔法のことを考えられるようになりました。ユキトさんがいなければ、ずっと考えないままだった。」

「それは——」

「それって、私がユキトさんを必要としている、ということですよね。自分一人では、自分のことがわからなかった。」

行人は黙った。

テアが言ったことは、デカルトが神を必要とした構造と、同じ形をしていた。自己は外部への依存なしに基礎づけられない——テアは理論としてではなく、経験として、同じことを言っていた。

「それは弱いことじゃないですか。」

テアが言った。不安を確かめるような言い方だった。

「弱い、というより——」

行人は言葉を探した。

「人間の構造がそうなっている、ということだと思う。」

「デカルトも、そうだったんですね。」

「そうだった。」

テアはしばらく空を見ていた。三つの星が出始めていた。

「ユキトさんは——自分を保証してくれる外側の何かを、見つけましたか。」

行人は答えなかった。

答えが来なかったのではない。問いの形が、少しずれていた。行人が探しているのは、自分を保証してくれる外側ではない。しかしでは何を探しているのか——それが今夜は、まだわからなかった。


夜、行人は一人で外を歩いた。

村は静かだった。明かりの残っている家と、もう消えている家がある。遠くで動物の声がする。

行人はゆっくりと歩きながら、ソルウェンとの議論を反芻していた。

デカルトは自分一人で完結する哲学を作ろうとした。しかし「我思う故に我あり」で確立できたのは、考えている自分が存在するということだけだ。

目の前のリンゴが本当に存在するかどうかは、それだけでは証明できない。自分の頭の中だけで完結してしまう。だから神を必要とした。神が欺かないと信じることで、初めて自分の外側が実在すると言えるようになった。

その構造を、行人は九年間教えてきた。

しかし今夜、その構造が別の角度から見えてくる。

デカルトは「自分ではない存在」を必要とした。神という、絶対的な他者を。その他者なしには、自己は自己であることを基礎づけられない。

行人はずっと、誰かに欲せられることで「俺はここにいる」と感じようとしてきた。欲してくれる誰かを、必要としてきた。その誰かなしには、自分の実在が確認できなかった。

デカルトの挫折と、行人の業は——行人はそこで、思考が止まった。


止まった場所が、見えた。

同じ構造だ、ということはわかる。デカルトが神を必要としたことと、行人が他者を必要としてきたことは、同じ形をしている。しかしそこから先に、問いがある。

もしそれが構造として同じなら——デカルトにとっての「神」は何だったのか。単なる外部の保証者か。その「挫折」の中に、本当の他者と向き合うための出発点があったのか。

そして俺にとって——欲せられることで確認しようとしてきた「俺はここにいる」という感覚は、本当に俺のものだったのか。


その問いが来た瞬間、行人は少し止まった。

歩くのを止めたのではない。思考が、一瞬、止まった。止まった場所は、底が見えない場所だった。

行人はその場所に、今夜は立ち止まらないことにした。立ち止まらないことにしたが、その場所がどこにあるかは、忘れないことにした。


歩きながら、行人は別のことを考えた。

欲せられることで「俺はここにいる」と感じようとしてきた、という事実を、行人は随分前から薄々知っていた。元の世界でも、異世界に来てからも。どこへ行っても同じことをやっている、という言葉は、その確認だった。

しかし今夜の問いは、そこからさらに一歩踏み込んでいた。

欲せられることで自分の存在を確認しようとしてきた——それは、自分一人では自分の実在を保証できなかったからだ。デカルトが神を必要としたのと、同じ理由で、行人は他者を必要としてきた。

構造が同じだ、というところまでは、今夜の散歩の途中で来ていた。

しかしそこから先の問いが、今夜は初めて来た。

もしその構造が本当に同じなら——デカルトにとって神は何だったのか。デカルトは神を「自己を基礎づけるための外部の保証者」として使った。しかしデカルトの「挫折」をそのまま挫折として終わらせるのは、何か違う気がした。神を必要としたその地点こそが、本当の他者と向き合うための出発点だったのかもしれない。他者が単なる保証者ではなく、本当の意味で他者として現れる瞬間。他者が単なる保証者ではなく、本当の意味で他者として現れる瞬間。

では俺にとって、他者はいつ「本当の他者」として現れるのか。

エナが「ここにいる感じがする」と言った。テアが「自分のことが自分一人ではわからなかった」と言った。ライナが「やることがあるから自分が自分だ」と言った。

三人ともそれぞれ、行人と違う方法で自分を基礎づけている。そして三人とも、行人の外側にいる。

俺は彼女たちを欲せられることの道具として使ってきた——という言い方は、少し違う。しかし完全に違う、とも言い切れない。

その思考が来た瞬間、行人はまた少し止まった。今夜は何度か、思考が止まる場所に来ていた。


翌朝、村の水場でカルタと顔を合わせた。

カルタは最近、行人に干渉しない。魔法の暴走の夜から、敵意の種類が変わったまま、そのままになっている。行人を見ても、何も言わない。それが今の二人の距離だった。

しかし今朝、カルタが珍しく立ち止まった。

「長老と話したそうだな。」

「そうです。」

「どうだった。」

行人はカルタを見た。顔に感情が読みにくい男だが、今朝は何かを聞こうとしている顔だった。

「負けました。」

「魔法の話じゃないんだろう。」

「神の話です。」

カルタは少し黙った。

「神の話で負けた、というのは——どういうことだ。」

「論理で崩せなかった、ということです。」

「それが悔しいのか。」

「悔しい、というより——崩せなかった理由が、自分の問題だったということに気づきました。」

カルタはその答えを聞いて、少し考えた。それからまた歩き始めた。行人の横を通りながら、小さく言った。

「……俺には、よくわからん話だ。」

「そうですね。」

「ただ。」

カルタは歩きながら言った。

「お前が変わったことはわかる。来た頃とは違う。」

それだけ言って、行人の前から去っていった。

行人はその背中を見送りながら、カルタの言葉の意味を考えた。変わった——カルタの目には、行人の変化が見えているらしい。行人自身には、何がどう変わったのかがまだよくわかっていないのに。


翌朝、ライナが来た。

珍しく、何かを持ってきていた。木の皿に、焼いた何かが乗っていた。

「食え。」

「ありがとうございます。」

「礼はいい。顔色が悪い。」

行人は受け取りながら、ライナを見た。ライナは行人を見ていなかった。村の方を向いていた。

「ライナさん。」

「何だ。」

「一つ聞いていいですか。」

「手短に。」

「ライナさんは、自分が自分だと思えるのは、なぜですか。」

ライナは少し止まった。それから、行人を見た。

「何だその質問は。」

「哲学的な問いです。」

「嫌いだそういうの。」

「それはわかっています。でも、答えを持っていると思ったので。」

ライナはしばらく、行人を見ていた。呆れているような、しかしそうでもないような顔だった。

「……やることがあるから、だ。」

「やることがある。」

「畑を耕す。飯を作る。荷物を運ぶ。誰かが困っていれば手を貸す。それをやっている間は、自分が自分だという感じがする。考えることじゃない。やることだ。」

行人はその答えを、しばらく受け取っていた。

「それで十分ですか。」

「十分かどうかは知らない。ただ、それ以外に方法を知らない。」

ライナは行人の手から皿を確認して、それから行人を一度見た。

「食え。冷める。」

それだけ言って、行人の横を通り過ぎた。今日も、ぶつからない距離だった。

行人は皿の食べ物を口に入れた。温かかった。焼いた穀物と、何かの香草が混ざった味だった。

ライナの言葉が、頭の中に残っていた。やることがあるから自分が自分だ——その言い方は、デカルトの「我思う故に我あり」と、構造が違う。考えることではなく、やること。思考による自己確立ではなく、行為による自己確立。

アリストテレスならそう言うかもしれない、と行人は思った。プラクシス——行為。思考と行為を分離せず、行為の中に思考がある、というアリストテレスの考え方。デカルトはそのアリストテレスの体系を継承したスコラ哲学に反旗を翻した。そしてライナは——そのどちらも知らないまま、行為の中に自己を見出している。


ライナに、観察者と行為者の違いを話したことはない。話してもわからないだろう、と行人は思っていた。しかし今朝、ライナの答えを聞いて、わからない、という判断が早まっていたかもしれない、と思った。

ライナはわかった上で答えたのではない。しかしライナの答えは、行人が九年間考えてきたことの、別の角度からの答えに近かった。

行人は今まで、やる人間ではなく、観察する人間だった。外側にいることが自然な立ち位置だった。

しかしそれは——何かを守るための姿勢だったかもしれない。

その思考が来たとき、行人は少し驚いた。何かを守るための、という言い方が、自分の内側から出てきたことに。


観察することで、何を守ってきたのか。

行為せず、外側にいることで、行人は何から自分を守ってきたのか。

答えは出なかった。しかし問いの形が、今朝は少し具体的になっていた。


その夜、行人は帳面を開いた。

かつての迷い人が書いた記録。「考えることは、答えに向かうためではなく、問いに向かうためにある」という一文がある。

行人はその一文を読みながら、別のことを考えていた。

かつての迷い人は、問いに向かっていた。誰にも届かなかったが、書き続けた。彼の問いは、星の動きから世界の構造を解明することだった。それは外側から見ることで初めて可能な問いだった。

行人の問いは、何か。

今まで行人には、問いがあった。なぜここに来たのか。どうやって来たのか。なぜ俺なのか。それらは来た当初の問いだった。そこから問いは変化してきた。魔法の構造は何か。神とは何か。信じることとは何か。

しかし今夜、初めて別の形の問いが来た。


俺は何者か。


これまでの問いは、世界についての問いだった。今夜の問いは、自分についての問いだ。そして自分についての問いは——自分一人では答えられない。他者なしには。

デカルトも同じだった。自己についての問いは、神という他者なしには答えられなかった。

行人は帳面を閉じた。

三つの星が窓の外に見えた。もう驚かない星だ。当たり前の星だ。しかし今夜は、少しだけ別の重さを持って見えた。

かつての迷い人も、この星を見ながら同じ問いに近づいていたのかもしれない。世界の構造を解明しようとして、最終的には——俺は何者か、という問いに辿り着いていたのかもしれない。

その男の帳面には「考えることは、答えに向かうためではなく、問いに向かうためにある」という一文があった。

今夜の行人は、その一文の意味が少し変わって見えた。

問いに向かう——それは、問いを深めることでもあるが、問いに向き合うことでもある。向かっていくということは、近づくということだ。逃げないということだ。

行人はこれまで、問いを「頭の中に置く」人間だった。宙ぶらりんのまま抱えておく。直視しない。近づきすぎない。

それは観察者でいることと、同じ構造をしていた。

外側から見る。内側に入らない。行為しない。関与しない。——何かを守るための姿勢だった。

観察することで守ってきたのは——俺自身だ、という答えが、今夜は少しだけ輪郭を持って浮かんだ。

しかしそこから先が、まだ見えなかった。何から自分を守っていたのか。その核心は、まだ霧の中にあった。


どこへ行っても、俺は同じことをやっている。

その言葉が浮かんだ。今日のその言葉は——静かだった。倦みでも確認でも肯定でもなく、ただ静かだった。しかしその静けさの中に、これまでとは違う質の何かが混じっていた。

問いが、底に近づいている感覚だった。

行人は帳面を閉じて、星を見た。三つの星が、静かに浮かんでいた。


我思う、されど、我——。

「我」の後が、まだ来ない。しかし今夜は、その「我」という言葉の意味が、少しだけ変わって見えた。「我」とは何か。我思う、という行為の主体は誰か。それは他者なしには基礎づけられない何かだとして——では、その他者は誰か。

答えは出ない。しかし今夜は、問いの形が昨日より少しだけ具体的になっていた。それだけで、今夜は十分だと思った。


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