第六章 我思う、されど、我・・・
ソルウェンは翌朝、約束通りに現れた。
行人は夜明け前に起きていた。
昨夜ほとんど眠れなかったのは不安からではなかった。頭が動き続けていた。昨日の議論を反芻し、どこに反論の余地があるかを探し、探しながら、探すこと自体がずれているような感覚を覚えた。
昨夜、行人は帳面を読み返した。かつての迷い人が書いた言葉。星の動きの記録と、余白の断片。その中に一つ、行人が昨日は見落としていた一文があった。
——考えることは、答えに向かうためではなく、問いに向かうためにある。
その一文を、行人はしばらく見ていた。答えに向かうためではなく、問いに向かうため。これはソルウェンが言ったことと、どこかで繋がっている。信仰とは、答えへの到達ではなく、問いを手放さないことへの確信かもしれない。
行人は夜が明けるまで、その一文と向き合っていた。
論破することが目的ではない——そのことが、夜明け近くにはっきりした。行人がソルウェンと話したいのは、勝ちたいからではない。自分の問いをぶつけたい、という衝動は、勝敗とは別のところにある。
では何のために。
その問いを持ったまま、ソルウェンを迎えた。
今日はガランの家ではなく、村の外れの木の下に座った。ソルウェンがそこを選んだ。昨日よりも、空が広く見える場所だった。
「昨夜、眠れたか。」
「あまり。」
「そうだろう。」
ソルウェンは少し笑った。
「議論の翌日は眠れない。三百年経っても変わらない。」
行人はその言葉を聞いて、少し驚いた。三百年以上生きてきた存在が、まだ議論の翌日に眠れないことがある——という事実が、妙に行人を落ち着かせた。
「続きを始めましょう。」
「そうしよう。」
行人が口を開いた。
「昨日の話の続きです。あなたは、理性は神の存在まで届く、しかし神の本質は信仰によってしか知れない、と言った。」
「そうだ。」
「理性の限界を認めた上で、信仰を置く。そこまでは理解できます。ただ一つだけ聞かせてください。その信仰は——どこから来るんですか。理性では届かないとすれば、何によって信じることができるのか。」
ソルウェンはしばらく黙った。昨日よりも長い間だった。
「経験だ。」
「経験。」
「森が応えた経験。精霊が動いた経験。魔法が自分の意志に従った経験。それらの積み重ねが、世界に意志のある原理がある、という確信になる。理性による証明ではなく、経験による確信だ。」
「しかしその経験は、俺には与えられていない。魔法が使えないから。」
「そうだ。」
ソルウェンは頷いた。
「だからお前には、信仰への別の道が必要だ。」
「別の道。」
「理性と経験の外に、もう一つある。」
ソルウェンは静かに言った。
「他者の言葉を信じること、だ。」
行人は黙った。
「森が応えた、と言う者がいる。精霊が動いた、と言う者がいる。お前はそれを経験していない。しかし、その言葉を信じることはできる。信じることは、証明を必要としない。」
「他者の言葉を信じることが、信仰になる、と。」
「そうだ。」
行人は少し考えた。他者の言葉を信じること——それは認識論として、どこに位置するのか。デカルトは他者の存在すら疑った。自分の意識の外にあるものは、本当に存在するのかどうかわからない。しかしその懐疑を乗り越えるためにも、デカルトは神を必要とした。神が欺かないと信じることで、外界の実在を信じることができた。
つまりデカルトも、結局は「信じること」を必要としていた。
「デカルトも、同じことをやっていた。」
行人は、気づいたことをそのまま言葉にした。
「神は欺かない、と信じることで、世界の実在を保証しようとした。証明ではなく、信頼として。」
「そうだ。」
ソルウェンは静かに言った。
「お前の師は、気づいていた。理性だけでは届かない場所があることに。」
しばらく沈黙が続いた。
木の上で、鳥が鳴いた。行人の知らない鳴き声だった。もう慣れていた。
行人は今の議論を頭の中で整理していた。
ソルウェンの論法はこうだ——理性は神の存在まで届く。しかし神の本質は信仰によってしか知れない。信仰は経験から来る、あるいは他者の言葉を信じることから来る。デカルトも結局、神が欺かないという信頼を必要とした。
行人が崩せない理由がある。それは論法が堅固だからではない。この議論の構造が——行人自身の問題と、同じ形をしているからだ。
「自分は何のために生まれてきたのか」という問いに、行人はまだ答えていない。答えを知らないのではない。答えを信じることができないでいる。信じると、裏切られたときに面倒だから——そう思ってきた。しかしそれは本当の理由ではない、と今日の議論の中でわかってきた。
本当の理由は、もっと単純だ。怖い、のだ。
「一つ聞いていいですか。」行人は言った。
「どうぞ。」
「デカルトという人間を、どこまで知っていますか。」
「お前の世界から来た人間との会話の中で、何人かから聞いた。方法的懐疑。コギト。神の存在証明。大筋は知っている。」
「では——」
行人は少し間を置いた。
「デカルトが、ある著作の出版を取りやめたことは、知っていますか。」
ソルウェンが行人を見た。
「知っている。」
「なぜ取りやめたか、も。」
「ガリレオが裁かれたからだ。地動説を唱えたガリレオが、宗教裁判で断罪された。デカルトは同じ主張を含む著作を持っていた。それを知って、出版を諦めた。」
行人は頷いた。
「俺が九年間教えてきたデカルトは、疑いなき真実を求めた男、という像です。あらゆるものを疑い、疑えないものだけを足場にして、真実へと向かった男。しかしその男が——真実を持ちながら、沈黙を選んだ。」
「そうだ。」
「あなたは、それをどう思いますか。」
ソルウェンはしばらく考えてから答えた。
「責める気はない。」
「責める気はない、というのは——」
「ガリレオが何をされたかを知っていれば、恐れるのは当然だ。しかし。」
ソルウェンは静かに続けた。
「しかし、お前の師は、その沈黙によって何かを失った。」
「何を失ったんですか。」
「問いを生きること、だ。」
行人は黙った。
問いを立てることと、問いを生きることは別だ——テアに言ったことが、今、自分に向かって返ってきた。
「デカルトは問いを立てた。しかし、その問いを命がけで生きることを、選ばなかった。ガリレオは選んだ。裁かれることを知りながら、撤回しなかった。——あるいは最後に撤回したという話もあるが、それはまた別の話だ。」
「デカルトが沈黙を選んだことは、間違いだったんですか。」
「間違いとは言っていない。」ソルウェンはゆっくりと言った。
「ただ——お前に聞きたい。お前は今、何かを沈黙させているか。」
行人は答えなかった。答えられなかったのではない。答えが、あった。
自分は何のために生まれてきたのか——この問いを、行人はずっと持ち続けてきた。持ち続けながら、直視を避けてきた。問いを立てることはできていた。しかし問いを生きることを、ずっと先送りにしてきた。
なぜか。
信じると、裏切られたときに面倒だから、という答えを行人はずっと使ってきた。しかしそれは、本当の答えではない。本当のことを言えば——怖い、のだ。
答えが出たとき、その答えが、自分の望むものと違ったとき。そのことが怖い。だから問いを宙ぶらりんのまま抱えていた。答えに近づかないようにしてきた。
デカルトも、そうだったのかもしれない。
ガリレオが裁かれた、という事実は、確かに怖かっただろう。しかしそれだけではないかもしれない。自分の真実を世界に出したとき、世界がそれを拒絶したとき——そのことへの恐れが、沈黙を選ばせたのかもしれない。デカルトが恐れていたのは、拷問や裁判だけではなく、孤立することへの恐れだったかもしれない。
「お前の師は、恐れていたのだと思う。」
ソルウェンが言った。まるで行人の思考を読んでいるように。
「真実を持つことの孤独を。知っていながら、それを誰とも共有できない孤独を。」
「……そうかもしれない。」
「お前は。」
行人は顔を上げた。
「お前は今、孤独か。」
行人はしばらく考えた。
エナがいる。テアがいる。ライナがいる。ガランがいる。ソルウェンが今、目の前にいる。孤独ではない。しかし——問いの部分では、一人だ。「自分は何のために生まれてきたのか」という問いを、誰かと共有したことは一度もない。
「問いの部分では、孤独だと思います。」
「それがデカルトの沈黙の理由だったかもしれない。」
ソルウェンは静かに言った。
「問いを共有できる相手がいなかった。ガリレオは裁かれた。教会は敵だった。誰に言えばいいかわからなかった。」
「しかし——」
行人は口を開いた。
「それは言い訳にならない。デカルトは、沈黙によって問いを手放した。かつての迷い人は、誰にも相手にされなかったが、書き続けた。」
「そうだ。」
「なぜ違う選択をしたんだと思いますか。」
ソルウェンはしばらく黙った。
「信じていたかどうか、だと思う。かつての迷い人は、問いに意味があると信じていた。答えが出なくても、問い続けることに意味があると。デカルトは——知っていた。しかし信じることができなかった。」
行人はその言葉を、しばらく手の中に持った。
知っていることと、信じることは別だ。
「お前は、信じているか。」
ソルウェンが言った。
行人は答えなかった。
今度は、答えが出なかったのではない。答えを、声にすることが——まだできなかった。
ソルウェンが立ち上がった。
行人も立ち上がろうとして、もう一つだけ聞いた。
「スキル鑑定で、俺は不明・計測不能という結果でした。鑑定師は神が意図的に魔法を与えなかった存在、と言った。あなたはどう思いますか。」
ソルウェンはしばらく考えた。
「その解釈は正しくない。」
「なぜですか。」
「神が意図的に与えなかった、という言い方は——神があらかじめお前のことを考えていた、ということを前提にしている。しかしそれは、証明できない。」
行人が以前鑑定師に言ったのと同じ言葉を、ソルウェンは静かに言った。
「お前が計測不能なのは、別の理由かもしれない。」
「別の理由とは。」
「お前はこの世界の外から来た。この世界の計測の枠組みが、お前に当てはまらないだけかもしれない。枠組みの外にいるものは、枠組みでは測れない。」
行人は黙った。枠組みの外——それはカントが言ったことと近い。認識の枠組みが先にあって、世界がその枠組みに従う。行人の枠組みと、この世界の枠組みが違えば、測れなくて当然だ。
「ただ。」
ソルウェンが続けた。
「枠組みの外にいる、ということは——見えているものが違う、ということでもある。この世界の住人には見えないものが、お前には見えるかもしれない。」
「それが——外側から見る、ということですか。」
「そうだ。」
「また来い。」
「また来るんですか。」
「来るかどうかはわからない。しかしお前がこの地にいる限り、会いに来ることはあるだろう。」
行人は立ち上がった。
ソルウェンと同じ目の高さに、初めてなった気がした。実際には身長の差がある。ただ、目の高さが同じに感じられた。
「一つだけ。」
行人は言った。
「かつての迷い人は——信じていたと言いましたが、何を信じていたんですか。神を、ですか。」
ソルウェンはしばらく考えた。
「神を、ではないと思う。」
ゆっくりと言った。
「問いそのものを、信じていた。問いには意味がある、という確信を、最後まで手放さなかった。それが彼の神だったかもしれない。」
行人はその言葉を聞いて、何かが動いた。うまく言葉にできなかった。ただ、何かが動いた。
「……ありがとうございました。」
「礼は要らない。面白かった。」
ソルウェンは村の外へと歩いていった。
その背中が木々の間に消えるまで、行人は見送った。
夕暮れの中を、行人は一人で歩いた。
村に戻る気になれなかった。しばらく、村の外を歩いた。
この世界の夕暮れは、深みのある紫がかった赤だ。最初の日に違和感があったことを、もう思い出せない。今は当たり前の色だ。
当たり前になった、ということは——ここが自分の場所になりつつある、ということか。
どこへ行っても、俺は同じことをやっている。
その言葉が浮かんだ。今日のその言葉は、倦みでも確認でも肯定でもなかった。何か別のものだった——昨日と同じだが、今日は少し、その「別のもの」の輪郭が見えてきた気がした。
デカルトは問いを立てたが、生きなかった。かつての迷い人は問いを立て、誰にも届かなかったが、書き続けた。ガリレオは問いを立て、裁かれた。
行人はどれでもない。まだ、どれでもない。
「お前は今、何かを沈黙させているか」——その問いへの答えを、行人はまだ声にしていない。しかし声にしていないことが、すでに一つの答えになっている。
我思う、されど——。
昨日、行人は初めて括弧に入れないことにした何かがあった。今日、それが少し形を持ち始めている。形を持ち始めているが、まだ言葉ではない。
村の入り口近くで、ライナに会った。
夕暮れの中、何かの荷物を運んでいた。行人を見て立ち止まった。
「長老と話したんだろう。」
「そうです。」
「どうだった。」
「また負けた。」
ライナはしばらく行人を見た。
「そんな顔して言うな。」
「どんな顔ですか。」
「負けたことを喜んでいるような顔だ。」
行人は少し考えた。喜んでいる、とは思っていなかった。しかし確かに——昨日より今日の方が、何かが前に進んだという感覚がある。それが顔に出ていたのかもしれない。
「負けた方が、前に進む気がするので。」
「変な男だ。」
「よく言われます。」
ライナは荷物を持ち直した。それからすぐに行こうとして、少し止まった。
「……飯、食ったか。」
「まだです。」
「ガランのとこに戻れ。食い損ねるぞ。」
それだけ言って、ライナは歩いていった。行人はその背中を見送った。
心配している、ということは、わかった。ただし、ライナはそれを心配とは言わない。心配している、ということを、指摘してはいけないと行人は思った。
括弧の輪郭が、また少し変わった気がした。
村に戻ると、テアが待っていた。
「どうでしたか。」
「続きはまたいつか、ということになった。」
「論破できましたか。」
「できなかった。ただ——」
行人は少し考えた。
「論破できなかった理由が、少しわかった。」
「どういう理由ですか。」
行人はしばらく黙った。テアの目が、何かを探している目で行人を見ていた。
「問いを知っていることと、問いを信じることは別だ、ということが——俺自身の問題だったということ。」
テアは黙った。
「テア、お前は何かを信じているか。」
テアは少し驚いた顔をした。それから、真剣に考えた。
「魔法は、意味があると思っています。なぜかはわからない。でも、意味がある、とは思っている。」
「それで十分だ。」
行人は言った。
テアはその答えを聞いて、少し変な顔をした。
「十分、というのは。」
「理由がわからなくても、信じることができる。それがデカルトには、最後まで難しかった。お前にはできている。」
テアはしばらく黙った。それから、少し笑った。今日の笑い方は、何かを確かめた笑い方ではなく——照れているような、そうでないような、微妙な顔だった。
夜が来た。三つの星が出た。
行人はガランの家に戻り、食事を終えてから、一人で外に出た。
ガランは今日も何も聞かなかった。ソルウェンとの議論がどうだったか、ということを。ただ、食事を出しながら、一度だけ行人を見た。その目が何かを言っていたが、行人には正確にはわからなかった。何かを確かめているような目だった。
三つの星が出ていた。
行人はその星を見上げながら、今日ソルウェンに言えなかった言葉を、心の中でだけ言った。
俺は——信じようとしている。まだ信じてはいないが、信じようとしている。それが今日の正直な答えだ。
かつての迷い人は、問いそのものを信じていた。答えが出なくても、問い続けることに意味があると信じていた。デカルトは知っていたが、信じることができなかった。行人はどちらに近いのか——まだわからない。ただ、どちらかに近づきつつある、という感覚はある。
声にするには、まだ早い。しかし括弧には入れない。
どこへ行っても、俺は同じことをやっている。
その言葉が浮かんだ。今日のその言葉は——また少し違う温度を持っていた。確認でも倦みでも肯定でもなく、何か静かな、了解に近いものだった。どこへ行っても同じことをやっている。それは俺だけではないのかもしれない。デカルトも、かつての迷い人も、ガリレオも、ソルウェンも。人間は、あるいはそれ以外の存在も、どこへ行っても同じ問いの前に立ち続ける。
それが「ことわり」だとしたら。
その思考は、そこで止まった。続きが来そうで、来なかった。ただ、扉の前に立っている感覚だけがあった。
我思う、されど——。
続きは、まだ書かれていない。しかし今夜は、続きを書こうとしている自分がいる。それだけは、確かだった。




